海外赴任の準備
海外生活体験者のレポート「フレンズ 帰国生 母の会」投稿より<1>
この記事で書かれていること
アメリカでのスポーツ活動
私ども家族は、当時長男が小学校5年生、次男が3年生の時にアメリカ、サウスカロライナ州コロンビアに赴任となり、二人の息子が高校卒業するまでの10年間を当地で生活しました。
この南部の田舎町の現地校では、日本人の生徒を迎えるのは初めてであり、常に大注目の日々でした。しかし、ありがたい事にサザンホスピタリティー(直訳すると、南部のおもてなしの心)溢れる地での駐在であった為、どこにおいても大変温かく受け入れてもらえました。
今、思い起こせば全てにおいてこの地での生活は、南部に残る伝統に大変助けられ本当に幸せだったと思います。このサザンホスピタリティーは日常的マナーにも現れ、常にレディーファーストであり困っていそうな時は声をかけてくれ、街中で目があえば誰もが笑顔で返してくれます。この習慣にすっかり慣れ、帰国当初は東京で同じように笑顔で返すとあからさまに不機嫌な顔で返された事を思い出します。
我が家ではこの環境で生活する上で少しでも早く地域に溶け込むには何が良いかと考えた末、まずは地域のスポーツチームに参加させる事にしました。幸いに二人ともスポーツが好きで言葉が通じなくてもすんなりと溶け込む事ができました。
アメリカではシーズンごとにそれぞれのスポーツの募集があり、野球等においてはトライアウトがありレベル分けがあるものの、他のサッカーやバスケット、フットボールなどはサインをすれば誰でも自由に参加でき、日本のように一つのスポーツに集中することなく楽しんでプレーすることが出来ました。
しかし親の協力は必須で、スポーツ経験のある父親は率先してコーチとなり、母親は送迎、ドリンクやスナックの準備等全てに親の協力がなければ成り立ちませんでした。
このように小学校までは色々なスポーツを楽しみながら経験し、中学に入り本格的に学校単位の部活動に入部します。これも人気のあるクラブにはトライアウトがあり、結果は涙や笑顔ありで初めての苦労や挫折を味わうのもこの時期です。
息子達は中学、高校とアメリカンフットボール部に所属しました。特にハイスクールともなると練習も毎日過酷で誰もがレギュラーを目指し必死に練習に明け暮れる日々でした。そして、9月には本格的なシーズンスタートです。アメリカの田舎町では地元の大学、高校のアメフトのゲームは最大の娯楽でもあり、高校生のゲームのある毎週金曜日の夜は街中が活気に溢れます。試合当日の朝には我が家の前庭に息子の名前の書いた応援のプラカードが何本も立ててあり本人は、勘違いのスター気分を味わっていました。
親の方もまた親バカで、金曜の朝からそわそわし、まるで追っかけそのもので、当時はすべて金曜のゲームの応援の為に日々が回っていたように思います。そして、ここでも親のサポートは大変重要で売店での販売、警備、ドリンク、スナックのサービス、遠方ゲームの応援等惜しげもなく協力していました。
あっという間に過ぎた10年間でしたが、今思い起こせば、私ども日本の駐在家族は、異国の地で数年間だけ生活させてもらう、いわばよそ者です。つねにその気持ちで学校や地域のコミュニティでのボランティア活動には惜しみなく積極的に参加し、その地に溶け込む事が一番大切な事だと痛感しました。
スポーツに始まりスポーツで終わったアメリカでの10年間の生活でしたが、これを通して出会えた友人は親子共々今でも交友を続けています。いつの日かの再会を願いつつアメリカで得た経験は、今では素晴らしい思い出であり我が家の大切な財産となりました。
高校受験
息子8歳、娘3歳の時にインドネシア・ジャカルタに赴任し、6年間の異国での生活を経て帰国いたしました。
ジャカルタでは日本人学校の規模も大きく、息子は抵抗なく日本にいるときと同じような学校生活をスタートし、娘は現地の英語系幼稚園に入園し、それぞれの新しい土地での学校生活が始まりました。
日本人学校では、現地校の生徒との交流やインドネシア文化を学ぶチャンスにも恵まれて、 大変充実した時間を経験しました。ジャカルタでは自由に行動がとれない制約された環境でしたが、子どもたちはのびのびと学校生活を過ごしました。しかし、赴任して3年が経ち私に気持ちの余裕が出てくると、子どもたちが帰国した時に日本との習慣のギャップに戸惑うのではないかと考えるようになりました。
その頃、中学受験をするために母子で帰国をする家族も増えてきていましたが、わが家は異国での生活を満喫することを大切に考え、いずれ迎える高校受験の準備を進めることを家族でよく話し合いました。
子は好きなスポーツに励み、部活に加えてクラブやインターナショナルチームにも所属して海外遠征も経験することができました。しい生活の中でしたが塾にも通いはじめて高校受験に向けての準備を始めました。現地の塾は学校の行事をまず最優先に考えてくださり、息子は頑張っているスポーツの時間を大切にするリズムを崩さず勉強を続けることができました。
しかし、私は帰国のタイミングを考えるとだんだん不安をもつようになりました。環境の違う中で育った子どもたちが、帰国後人数の多い公立校に馴染めるのか心配になり、インターネットのHP等で編入情報を調べました。息子が中学2年生の夏に、幼稚園から中学3年生までの一貫校が編入生の募集をしているのを知り、一時帰国をして試験を受け、無事合格をいただきました。
ほぼ同じ時期に主人の辞令もでたため、家族そろっての帰国ができました。息子は日本人学校の友だちと一緒に卒業できない寂しい気持ちを切り替えて帰国後、日本での中学生活と高校の受験勉強が本格的に始まりました。
なぜこんなに夜遅くまで塾に通い受験勉強に時間を費やさないと高校に入れないのか…等、私の中では様々な思いもあり疑問ばかりが増えましたが、前を向いている息子をただ見守ることしかできませんでした。高校選びは、大学受験は希望しないという息子の意思を尊重して、付属校に絞りました。
短い日本の中学校生活は、先生方の温かくきめ細かいご指導と友人たちにも恵まれて始まりました。まわりのお友だちと同じように高校受験に向けての姿勢が整ったお陰で、第一志望の合格をいただくことができました。
息子は、スポーツの部活にも入部し、高校生らしい学生生活を始めました。親の赴任で辛い思いもあったと思っていますが、私は息子の元気な後ろ姿をこれからも見守っていきたいと思います。
親の立場からは、日本の受験を経験して、いろいろと疑問に思うことはありますが、息子の高校受験は無事に幕をおろしました。帰国して日本の生活に馴染むのに、いろいろな壁に遭遇したことと思いますが、何事にも挫けず諦めずに前を向いて頑張る力が身についたと思います。
習慣や文化の違う環境で育ったことは、自然に他人を思いやる心を育て、バランスのとれた人間性を肌で身につけることができ大変貴重な経験となりました。高校受験やジャカルタでの生活が息子にとって今後の人生の中でプラスに役立ってくれることを母として願っています。
我が家の海外生活
夫の最初の赴任地はニューヨークで、子供達は長女5才、長男0才でした。いずれは海外勤務になるだろうと思っていましたが、いざ転勤が決まると現地の治安など漠然とした不安で一杯でした。家族は夫の半年後に行くことになっていましたので、住い・家具・ホームドクター・車・学校(幼稚園)等は全て夫が決めてくれました。
私は子供達の予防接種歴の英文手配と引越しをしただけでしたが、子供達が小さかったので、なんだか大変な大仕事だったような気がします。
住まいは、ロングアイランドのナッソー郡ミネオラの一戸建て、車庫は大きいけれど地下室の壁が少し剥がれていて、2階の納戸を開かずの間にしたような古い家でした。夫は車が2台入る車庫があり、子供たちが速やかに英語を習得するために、学校に日本人が少なく、治安も良いところということで決めたようです。
最初は日本人が近所にいないのが不安で、夫にどうして日本人が多い学区に決めなかったのかと文句も言いました。でも、結果的には、近所の方達が陽気で親切で子供もたくさんいたので楽しく生活できました。夏には各々の家が友人達を招いて、道を通行止めにしたブロック・パーティーで夜遅くまで盛り上がり、近所のアメリカ人3家族とは泊まりがけの旅行もしました。
当時の娘は元気で物怖じしない子だったので、すぐに近所のアメリカ人の子供達と遊びたがったり、隣の老夫婦のお宅へも一人で遊びに行ってしまったりと、英語が上手に話せない私は振り回されてオロオロするばかりでした。子供が外で遊ぶ時は親が必ず見ていなくてはならないので、私も近所のママ達と一緒にいて話をすることになるのです。
ママ達は受け入れ気遣ってもくれましたが、毎日のことだったので、結構なプレッシャーとストレスがありました。今思えば、そのお蔭で早くご近所の方々と親しくなれましたし、娘も学校のESLを2年足らずで終了し、現地校にすぐに溶け込めたのでしょう。
息子は、3才からナーサリースクールに通わせました。0才からアメリカにいるといっても、ほとんど私といるわけですから、英語は話せないし、娘と違っておとなしいので、初めはちょっと嫌がりました。先生が話すことを理解しているので言葉の問題はないと言われましたが、本人は英語が苦手であると言っていました。
毎週土曜日は日本人補習校に通っていましたので、日本人のお友達も沢山できました。遠い親戚より近くの他人ではないですが、頼りにできる日本人がいることは心強かったです。家族ぐるみのお付き合いをしていた5家族とは、今でも連絡を取り合っていて、年に何度か集まっています。
最初は全て夫頼りでしたが、だんだん慣れてきてルールやシステムが解れば英語がうまく話せなくてもやっていけることを学びました。例えば、おとなしい息子ではありますが、血尿が出た時、後頭部を打ち大量に出血した時、車の窓ガラスに顔を打ちつけ眉毛を真二つに切った時と3度も救急病院に駆け込みましたが、2度目からは、小さな通訳娘と一緒に3人で行きました。3度目は男でも顔は大事なので人相が悪くなっては困ると、救急医ではなく形成外科の専門医に処置してもらいました。慌てないで落ち着いて対処すれば、どうにかなるものだと思いました。とは言え、夫が頼りになると実感した海外生活でした。
6年後の春に帰国し、子供達は公立小学校の6年生と1年生に入りました。転入・転出の多い学校でしたのでよかったのですが、娘は6年生という微妙な学年でしたし、ちょっと太っていて、性格も子供っぽかったので馴染むのにかなり苦労していました。息子は新入生だったのでスムーズに日本の生活に入って行きました。
4年半後、夫にフランクフルトへの海外赴任の内示がありました。娘は高校1年の2学期の途中で、学校と部活がとても楽しいから転校したくない、今から現地のインターナショナルスクールに入って苦労したくないから日本に残ると言いました。2世帯住宅で祖父母と同居していたので残れると
思ったのでしょう。
夫は連れて行きたいようでしたが、本人のやる気がない限り勉強についていけないし、2年後の大学受験時には戻らなければならないので、話し合った末、両親にも了解してもらい、娘を残すことにしました。しかし、高1で残していくのは不安でしたので、私と息子は娘の高2終了まで、息子が小学校卒業まで日本にいることにし、夫に1年間単身赴任してもらうことにしました。
娘は大学の付属高校に通っていたので、大学受験の心配はありませんでした。
3から大学2年までの3年間ならば、うまくやってくれるのではと思ったのですが、そんなに甘いものではありませんでした。祖父母との50年のジェネレーションギャップはかなりのもので、度々もめていましたので、電話でなだめたり謝ったり、長期休暇の時には娘を呼び寄せたり私が日本に帰り両親のご機嫌を取ったりとちょっと大変でした。ドイツにもどると穏やかな日々でホッとしたものです。
ドイツに赴任するにあたっては、ほとんど何も心配していませんでした。ドイツ語は解らないのですが、どうにかなると思っていました。息子は日本人学校に行くことにしていました
し、車の運転をするつもりがなかったので、万一の事故処理の心配をする必要もありませんでした。
また英語が結構通じるので、ドイツ語の挨拶、数字、必要な食材や物の名前、電車・バスの乗り方、ゴミの出し方などルールを知っていれば生活できました。
フランクフルトでの住まいは息子の通学と私の車なしの生活(夫は車通勤でしたが、2台目を購入するつもりがなかった)に便利な所でした。街の中心部まで10分の地下鉄3路線が通る駅から3分程の新築の綺麗なアパートでした。日本人も多く住んでいたので、色々な世代のお友達ができて楽しかったです。
息子は、本人の希望で日本人中学校に入学し ました。息子の学年は20人ぐらいで、出入りはありましたが、卒業時でも15人ぐらいいましたので、皆仲良く楽しい穏やかな学校生活を送りました。高校受験のため、学校近くの日本の塾にも通っていましたが、のんびりとしていました。中3になって慌てて英検2級を取ったり、日本にいる娘に願書の取り寄せをしてもらったりとバタバタしましたが、結局はなるようになったという感じです。
フランクフルトに行って9カ月後に新しい家族が増えました。ウェストハイランドホワイトテリヤ犬のSCHNEEです。まだ日本にいる時、もしドイツに行って息子が情緒不安定なってしまったら犬を飼ったらいいのではないかと思っていたので、つい息子に「ちゃんと世話をするのならドイツで犬が飼えるかも!?」と言ってしまっていたのです。
ずーと忘れた振りをしていたのですが、犬好きの夫と息子に押し切られて飼うことになってしまいました。息子と夫が面倒をみるとはいっても、ウィークデイの午後の散歩は暇な私のお仕事になってしまいました。お世話はちょっと面倒でしたが、お陰で周りの公園や街の散歩が出来てよかったです。ドイツやヨーロッパの国々では、食料品店以外はたいていどこの店にも乗り物にも犬を同行してよかったので、よく一緒に色々な所に出掛けまし
た。そして、大切な家族の一員となりました。
3年間滞在した後、私と息子とSCHNEEは一足お先に帰国し、その8か月後に夫も日本勤務となりました。
“Mi casa es tu casa”~私の家はあなたの家ですよ~
13年前、最初に赴任したのがメキシコ合衆国・メキシコシティーでした。
当時我が家は、夫と幼稚園年少の長女、そして2歳の次女の4人家族でした。近いうちに海外赴任のあることは前々から分かっていたので、夫も私も楽しみにしていました。ただ、それが英語圏でもアジアでもない、中米メキシコというのには少なからず戸惑いを覚えました。
それまでのメキシコの印象といえば、マリアッチに砂漠の中のサボテン、タコスやカンクンくらいで、メキシコシティーがどんな街で人々がどんな暮らしをしているのかまるでイメージが湧きませんでした。
渡航が近づくと、会社の説明会では“とにかく危険”と安全対策を指導され、経験者からは高地にあるので空気の薄いこと、大気汚染のひどいことなど必ずしも楽しい事ばかりではないことを教えられました。それでも、先に渡航した夫から私たちの住居となるアパートや街の景観などの写真を送ってもらったり、だんだんとそれは現実味を帯びてくるのでした。
渡航準備は日本のものが手に入りづらいとのことで、子どもたちの2~3年分の衣料品や絵本、文房具また和食器などなど、荷物がずいぶんと多くなってしまいました。
さて、計16時間のフライトの末無事メキシコシティーに到着したのは夕方でしたが、まず、なんと空気の澱んで臭いこと。ちょうど乾季の終わりで最も大気汚染のひどい時期であったのは後になって知ったことでした。
そして標高2240メートルにあるその街での暮らしがスタートしたわけです。スペイン語のメイドさんとのとんちんかんなやりとりや、秩序を無視した交通ルールに2度も接触事故を起こしてしまったり、慣れない食材での食事作りなど、今思い出すとどれも懐かしい思い出です。
中でも印象に残っているのは、子どもたちを近所の幼稚園に送迎するのにまだ車の免許がなかった私は、歩いて10分ほどの道のりを3人で通っていました。幼稚園までは高級住宅街でとても静かなところです。そのことを会社の
先輩夫人に話したところ、“静かなのが一番危ないのよ。できるだけ人のたくさんいるところを選んで!”と驚かれてしまいました。日中でもピストル強盗の横行する街で私の不用心さが露呈してしまったわけです。
それでも、メキシコシティー赴任中の2年半の間、日本人のなかで強盗、空き巣、置き引き、誘拐など何らかの犯罪被害にあわなかったのは周りを見渡しても我が家くらいのもので、それはただただ運が良かったとしか言いようがありません。
一年ほどして3人目を妊娠しました。すでに出産の経験があったので不安はありませんでしたが、いつも一人で検診にやってくる私にメキシコ人医師は、ある日とても気の毒そうに“ご主人はいないの?”と質問しました。ずっと、心配されていたようです。
出産は自然分娩を選びましたが、出産の最中まで“我慢しないで麻酔しましょう。”と説得され続けました。幸い安産で初志貫徹でき、医師はその時初めて夫と対面したのでした。
その後メキシコ国内のモンテレイという北部の都市に転勤になりました。そこは、アメリカ国境に近いこともあって、メキシコらしさの希薄な街です。当時は国内でも珍しく安全で夜の外出も女性だけで安心してできる所でした。
子どもたちは夫と私の考えから、日本人の一人もいないインターナショナルスクールに転入しました。すでに少しスペイン語ができたので、好奇心いっぱいのメキシコ人にも助けられ、学校にもすぐに慣れました。
モンテレイでの3年間は、メキシコ人のなかで生活し、本当のメキシコを知ることができたと感じています。メキシコ人の良く言う言葉に“Mi casa es tu casa”というのがあります。“私の家はあなたの家です“という意味です。突然の訪問にも必ずこう言って相手を気遣ってくれるのです。
パーティーを開けば夜中まで盛り上がります。日本だったら当然ご近所から苦情が出るでしょう。しかしそこはお国柄、誰も気にする人などいません。サッカーの国際試合のある日は学校に行ったら誰も来ていませんでした。それでいいのです。
家族全員がそんなメキシコを大好きになりました。帰国辞令が出ても、特に子どもたちは、その地を離れることを心から残念がりました。
帰国してからはや6年近く経ちましたが、メキシコを懐かしむ気持ちは変わりません。不安をいっぱい抱えて旅立った私でしたが、ぜひもう一度彼の地に住みたいと熱望しています。
日本人学校からの中学受験
夫の2度目のアブダビ赴任が決まったのは娘が小3の終わりで、中学受験の塾に通い始めたばかりの時でした。
アブダビ日本人学校には前回息子が小学1、2年で通っていたこともあり、少人数で家庭的な校風とわかっていましたので、今回娘を連れて行くことにあまり迷いはありませんでした。その結果中学受験はできなくなっても、長い人生の中で子供時代に異なった文化の国で数年間過ごすことは良い経験になるという思いも強くありました。
前回の帰国から8年が経っていましたので、アブダビの町は大きく変貌を遂げ、色とりどりのガラス窓がキラキラ輝く高層ビルが建ち並ぶ近代都市となっていました。その中に大小のモスクやミナレット(塔)が点在し、一日5回、礼拝を呼びかける声が響き、道行く人々は欧米やアジア、周辺アラブ諸国からの多くの外国人そして民族衣装の自国UAE人と一種独特の異国情緒を醸し出していました。
日本人学校の先生がたは行事への取り組みが熱心で現地校、外国人学校との交流もたびたびあり、子供たちは毎日が刺激的で忙しく過ごしていました。ただ塾など全く無く、中学受験どころか普通の勉強にも不安を感じていました。
帰国枠での受験に関しても日本人学校なので英語ができるわけではないという理由であまり考えていませんでした。そんな時に手にした学校案内で 帰国生受験の詳しい状況、合格者の出身内訳(現地校か日本人学校)などを見て帰国生受け入れの多様性を知りました。
帰国は娘が小6の夏でその時点でも無理に帰国枠で受験しなくてもいいという気持ちでしたが、塾に勧められるまま学校説明会に何校も足を運びました。個別に話を聞くうちに学校によって受験資格、入試科目や採点方法、入学してからの対応について実にさまざまであるという印象が深まっていきました。短期間に、受験可能な学校、合格できそうな学校、もちろん娘の希望や入ってから合いそうな学校を選択するのは本当に大変でしたが何とか入学でき高2現在まで楽しく通っています。
親の仕事の都合でそれまでの生活が断ち切られるということを子供はどう受け止めているのでしょうか。日本人学校の先生でご自分も帰国生だった方が、帰国する生徒の親たちに向けた言葉の中で「ここでの数年間の生活がその子にとってどういう位置づけになるのか本人に整理させてあげてください」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
小学校のボランティア
ボランティアときいてどのように感じますか?以前の私は何か特別で自分には遠い事のように感じていました。ところが夫の駐在の為に渡米してから考えが変化してきました。
私たち家族は長女が小学2年生、次女が4歳のときにアメリカ・ジョージア州アトランタに渡米しました。この国では、ボランティアがごく自然に人々の生活に溶け込んでいます。気がつかないうちにどこかで誰かに助けられ、その気になれば自分も気軽にボランティア活動に参加できます。
それはエレメンタリースクールでも同様です。新学期が始まるとすぐに開かれるオリエンテーションではボランティアシートというものがまわってきます。そこに自分にできそうなものをみつけてサインをします。
私もアメリカ生活2年目に突入し、生活にもそろそろなれてきた頃に、次女のキンダーガーデンのクラスで数種類のボランティアを経験しました。
キンダーガーデンでは週に1回“センタータイム”と呼ばれる時間があります。これはクラスに行って、子供たちに混じって、質問に答えたり補助をしたりしながら一緒にクラフト作りをするお仕事です。その日はカフェテリアで娘と一緒にランチを食べて帰ります。これによって娘のクラスメートや先生とも知り合いになれるうえ、学校での娘の様子を肌で感じる事ができます。この他にもリソースセンターというところで先生が依頼したコビーや切り抜きをする仕事もしました。
中でも大変だったのはフィールドトリップのシャペロンでした。これは遠足のができます付き添いの仕事です。私が参加したのは“インデイアン村”に行く遠足で、学校から生徒、先生、他のシャペロンの方々と一緒にバスに乗り込みます。現地についたら自分の子も含めた4人の生徒を託され、地図をもとに帰りのバスの時間まで彼らを連れて園をまわります。
こんな事を想像していなかった私は正直あせりました。何しろまだ英語力も十分ではなく、初めて来た場所で子供たちを連れて回らなければならないのです。
それでも何とか回って帰りのバスに乗り込み、“ヤレヤレ”と思った矢先のことです。私のグループだった男の子が泣いているのです。よく聞いてみるとどうやらその子が楽しみにしていた場所があったにも関わらず私がそこを抜かしてしまったのが原因でした。この男の子には本当に申し訳ないことをしてしまいました。
このような結果になってしまいましたが、私にとっては貴重な思い出です。学校でのボランティアは先生と親とのコミュニケーションを図る事。親も自分たちが参加することで学校の教育をまったくの先生任せではなくもっと能動的になれるのです。
異国に住む場合、私たちは現地の人々にとっては外国人です。私も最初はドキドキでしたが、ボランティアに参加することでその国への理解を深め、少しでも仲間の一人としての意識をもつことができるいいチャンスであり、とても楽しい思い出になっています。
海外での子育て
わが家の海外生活は日本から遠く離れた南米で始まりました。1992年~1996年チリ、1996年~1999年ボリビア、そして1999年~2002年と2003年~2006年の2度のパラグアイに夫の海外赴任に家族で同行しました。この間、1992年長男を、1993年に次男をチリの首都サンティアゴで出産しました。ここでは、赴任地ボリビアでの子育てについて書きたいと思います。
1996年7月にボリビアの第二の都市サンタクルス市に到着しました。ここは首都の標高3500mのラ・パスと違い低地の亜熱帯で緑が多く、常にバナナ、マンゴ、パパイヤ、パイナップル、レモンなどの果実が自然と実り、子どもがのびのびと暮らせる良い所でした。
住居も落ち着き長男の幼稚園を調べたところ、アメリカンスクールの幼稚園のpre-kinder(年中)の入園を考えて問い合わせをしました。ところが、新学期は8月上旬ですでに募集は終わっていて、空きがあれば連絡して下さるとの事でした。その間近くにある現地の幼稚園に次男とともに入園させ、息子たちは小さいながらも先生のスペイン語の教えのもと、楽しく過ごしていました。
翌年の4月ごろ、アメリカンスクールより新学期の募集の連絡があり、長男kinder(年長)、次男pre-kinder(年中)に受験させました。試験日当日、ほかの受験する子供達と部屋に入っていきましたが、10分程して「ぼく、いやー!」と言いながら次男が出てきてしまいました。「あーこれは、だめかな?」と思いながら結果を待っていましたところ、残念ながら二人共不合格でした。せめて、最後まで試験を受けていた長男だけでも入園できないかと、主人と共に校長先生とお話しさせてもらえるようお願いしました。快く応じてもらい、「なぜ不合格だったのか」と質問したところ、まだ長男は「maduraでない」との返答でした。
この言葉は、私がふだん果物を買う時にmadura(熟している)かfirme(堅い)か店員に確かめていたのでその意味はわかっていましたので、「長男が熟していない?どういうことなのか」すぐに理解することができませんでした。校長先生がおっしゃるには、長男は年長クラスに入るために必要な英語力が十分ではないという判断だったようです。「日本だったら、その年齢に応じて進学していくのにどうして?」と、子育てしてきて初めてのショックを受けました。
それでも、入学させてもらえるようにお願いしたところ、英語の家庭教師をつけることを条件に1学年を落として年中なら入学できるとのことでした。
入園してみると、ボリビア人もアメリカ人もみんな体が大きいので、年の差を感じることがなかったようです。
そのうちに友達もたくさんでき、毎週末誕生日パーティーに招待されるようになりました。お母さんも同伴でしたので仲良くなり、気になっていた入園時での年齢の話しをしたところ、学年を下げたお子さんが何人かいることがわかり安心しました。
翌年次男も1年遅れで年中に入園し、長男は年長に進みました。二人とも嫌がることなく授業中先生とは英語、お友達とはスペイン語で会話しているところをみて、能力が劣っていることではなかったことに安心しました。幼稚園はその子の発達段階をみて、その子に合ったクラスに入園させるということを理解しました。
1996年6月長男は年長、次男は年中を修了後、日本に帰国した長男は、小学校1年生に、次男は、幼稚園の年長に編入しました。長男はひらがな、カタカナが十分に身についていなかったので、ここでしっかり勉強させていただきました。その年の9月には、パラグアイの首都アスンシオンに赴任が決まり、日本に落ち着く暇もなく同行しました。
わが家は常に一緒に行動する事を大切にしています。たくさんの色々な経験を一緒にする事が、わたしたち家族共通の話題となり、子供たちの人生の得がたい財産になって欲しいと願っています。
食を通じて感じたこと
我家の海外生活は、長女が2歳の時、香港から始まりました。その後、上海、ニューヨークと通算10年間の海外生活を経て、中学受験を機に帰国いたしました。
中国に返還されたばかりの当時の香港は、街中に人があふれ、そこかしこから、香辛料を含めたいろいろな臭いが混ざり合った、東南アジア特有の街でした。2歳の子どもに果たして何を食べさせれば良いのか、真剣に悩んだ時期でもありました。
しかし、だんだんと生活にも慣れ、香港人の友人も出来た頃から、食生活も楽しいものと変わってきました。
最初は神経質に日系スーパーの野菜しか買えなかった私も、だんだんと現地の街市(現地の市場)へと繰り出すようになり、見慣れぬ食材と格闘することも楽しみの一つとなりました。現地の友人と買い物に出た時などは、生きている鶏を丸一羽買い、その場でさばいてもらい、そのまだ生暖かい感触の鶏を持って、友人宅へ直行。一緒に蒸し鶏にしたり、見慣れぬ内臓の食べ方などを伝授してもらったりと、楽しいひとときを過ごしました
。二人目の出産は香港でしたので、つわりの頃にはアマさん(お手伝いさん)が、いろいろな広東料理をつくってきてくれるので、長女は大喜びしていました。
次の赴任地の上海は、至る所、建設ラッシュで、空気が悪く、交通渋滞の激しい街でした。長女はインターナショナルスクールへ、次女は現地の幼稚園へ進みました。
毒入りギョウザ事件や残留農薬野菜など日本でも話題に事欠かない中国ですので、特に食材には神経を使いました。次女の幼稚園の給食は、水餃子や、中華丼のようなぶっかけご飯など中国ならではのものでした。また、長女のインターナショナルスクールは40カ国近い国々から生徒が集まっており、インターナショナルデーには、保護者がお国自慢の料理を持ち寄ります。そのため、中国にいながら世界各国の本場の料理が楽しめました。
最後の赴任地ニューヨークでは二人とも現地校へ進みました。ニューヨークといってもリスも鹿もいるような郊外でしたが、今までとは違い、スーパーには新鮮な無農薬野菜やおしゃれな嗜好品がきれいにたくさん並び、最近のヘルシーブームもあって、至る所に日本の食材を目にすることができました。学校でも、日本食はかなり浸透していて、学校行事におにぎりや巻き寿司を持参すると、とても喜ばれました。
海外といっても、香港、上海は日本と同じアジア圏のお米文化。さほど食生活に趣を置かないアメリカの毎日ピザやチキンの学校のランチに、子どもたちも文化の違いを多いに実感していたようです。
海外赴任中、私たちは、常に突然の“帰国”を頭の片隅に日々翻弄されます。我家の在任中もSARS、反日デモ、大停電など、各国で大変なことがたくさんありました。けれども、帰国した今、赴任地で食べていたものを食卓に並べる時、その当時のことが懐かしく甦り、娘たちとも会話は尽きません。
日本では味わうことのできなかったいろいろな“おいしい”経験こそ我家にとって何よりの財産だと思います。