海外赴任の準備

海外生活体験者のレポート「フレンズ 帰国生 母の会」投稿より<3>

トロントでの英語再認識

私たち家族の4度目の赴任が決まったのは、娘たちが中3、小4の時でした。これまでも10年以上を海外で過ごし、長女
の受験を機に帰国しました。やっと娘たちも日本に慣れ、やれやれと思っていた矢先の事でした。
長女は中高一貫の私立校に通っていましたのが、一旦退学をしても復学できる学校で、次女も海外が大好きでしたので即、トロント行きを決めました。
その前の赴任地はニューヨークで、国は違いますが同じ北米、同じ東海岸でしたので、子どもたちも転校に慣れていましたし、英語も基礎的なものは身に付いていましたので、さほど心配はしていませんでした。

しかし実際には、カナダとアメリカでは、外国人・移民の受け入れ方などには、いろいろと違いがあり驚かされました。
ニューヨークが「人種のるつぼ」ということは有名ですが、トロントも、「モザイクシティ」と呼ばれ私たちが想像していた以上に、多国籍の人々が多く住み宗教もさまざまな都市であることに驚きました。
学校入学のためadmission officeに行った時の事です。言語によって不利益があってはいけないと、そこには30カ国以上の言語で書かれている説明書が用意され、数カ国語を話せる通訳の方がいらっしゃいました。
もちろんアメリカにも数カ国語の翻訳パンフレットは諸処にありましたが、このように少数派の言語に対する配慮はこれほど無かったと記憶しています。どちらも同じように移民を受け入れている国ですが、これがアメリカはmelting pot、カナダはmix salad と例えられる所以なのだと実感しました。

長女は公立のハイスクールに入りましたが、3~4割はアジア人でした。北京語、広東語、韓国語、トルコ語、アラビア語など数々の言語が飛び交う学校でした。娘は幼少期に香港・上海にもいましたので、多少聞き取りにくい英語や他言語にも違和感無く溶け込めたようでした。
韓国人のお友達ができたこと、韓国Popが好きになったことで韓国語も聞くことはずいぶん出来るようになり、また反対に台湾人のお友達には、日本語を教えたりと楽しい学校生活だったようです。

全く英語が話すことができない まま移民してきたばかりの子どもたちも多く、彼らはおぼつかない訛りのある英語でなんとかコミュニケーションを取っているようでした。授業中以外は英語以外の言語を使っても問題はありませんでした。
長女にとって、今までのように綺麗な発音で教えてもらう言語、学習のための言語だった英語は、コミュニケーションツールという考え方に変わったようでした。次女も現地校を選びました。転校当日、アメリカではなかなか正確に読んでもらえない娘の名前をきちんと発音して下さったことに驚きました。
先生方は、生徒が多国籍の子どもが多いためか色々な国の珍しい名字をよくご存知で、個を尊重する上で、氏名を正確に読むという基本的な事を、特に努めて配慮して下さっているようでした。

一番アメリカと違うと感じた事は、担任の先生が、「私は、小さい頃からフランス語も勉強してきたけど、フランス語は話せないわ。あなたは英語も日本語も話せるなんてすごいわね。英語はきちんと学校で教えます。ですが、母語である日本語は家庭でじっくりと勉強し続けて下さいね」と私たちにお話された事でした。
アメリカでは、ESLなどのクラスが豊富に準備され、家の中でも英語を話し、少しでも早く英語が話せるようにと指導を受けていましたが、トロントでは母語が基本という考えでした。
私たちは母語が大切であると理解はしていても、どうしても英語圏に行くと英語をいかにして早く習得するかを考えてしまいがちです。ですが学校で母語を大切にと指導してくださったことは、英語ひいては日本語を再度見直す、とても良い機会になったと思います。

帰国して、また慌ただしい生活が始まりました。
長女は、英語は一つのコミュニケーションスキルと捉えたようで、得意であるはずの英語とは方向の違う理系志望という進路選択をして目下、大学受験に向け勉強中です。
一方、次女はもっと英語で勉強したかったという思いから帰国後、英語を積極的に教えてくださる私立の中学校を受験して今でも英語の維持伸張に努めています。
娘たちの英語の捉え方はそれぞれですが、言語に対する考え方は深まったように思います。今回の赴任も含め毎回子どもたちは、それぞれにとても良い経験を積んだようです。

小さな自信

2001年7月から2007年7月までの6年間、私は主人の転勤でアメリカのサンフランシスコ近郊で生活をしました。「アメリカに行ってメジャーリーグの試合をたくさん見ようね!」と野球が大好きな小学3年生だった長男はとても喜び、「お兄ちゃんと一緒なら私も大丈夫!」と小学2年生の長女も期待を膨らませて渡米しました。

しかしサンフランシスコ国際空港に着き、どこからも日本語が聞こえず、全く知らない風景が見えたときから子供たちはとても不安げな表情に変わりました。現地校の新学期が始まるまでの一ヶ月半ほどは、近所の散歩をしたり、公園に行っても誰も知った人がいないので、すぐに帰ってきていました。
前任者がいなかったので、知人や医者を紹介してもらうことも出来ず、何でも主人と相談して一から探す生活でした。ですから毎日が新しいことばかりで、どんなことも聞き逃さないように一生懸命だったので、一日が終わるとグッタリ疲れてしまうことが多かったです。生活が軌道に乗り始めた矢先に「同時多発テロ」が起き、さらに気を引き締めて暮らしていこうと思いました。

現地校に通い始めたとき子供たちは、何もわからずただ教室で黙って座っていたようです。私が迎えに行ったときも、先生は「今日も静かにして良い子でしたよ」というばかり。宿題も「まだ難しいだろうから、無理してやらなくていいですよ」と言われ、このままでは全く前に進めないと気持ちばかり焦っていました。
どうしたものかと思っていたある日、体育の時間に縄跳びをすることになりました。息子が二重跳びや綾跳びなどを取り混ぜて飛んだところ、クラスのみんながとても驚き、その日から息子は一躍ヒーローになりました。少し自分に自信がついてからは、私が作った単語帳を片手にお友達に話しかけるようになり、徐々にお友達が増えていきました。

娘も当時流行していたピカチュウを折り紙で折ったところ、それがきっかけでお友達が増えていきました。それからは宿題も出してもらうようになりました。宿題を手伝ったり、クラスのボランティアに参加したり、遠足に引率で参加してみると子供の様子がわかるだけでなくアメリカの文化がわかり、私自身も大変良い勉強になりました。

英語が少し出来るようになると大変になってくるのは日本語力の維持です。我が家では「現地校では英語、帰りの車の中から徐々に日本語、家に入ったら日本語」と決めました。低学年で渡米したので、毎日短時間ですが漢字をきちんと書き、日本の教科書を音読し、キレイな日本語を話すように心がけました。

現地校の勉強は量が多いので大変でしたが、時々息抜きをさせてあげたいと思い、まず週1回のスイミングクラブ通いを始めました。そして息子は地元のリトルリーグに入り、娘はテニスや体操教室にも通い始めました。スポーツはとっさに言葉が出ないと成り立たない場面が多いので、我が子はスポーツを始めてからの方が言葉がスムーズに出てくるようになりました。
念願だったMLBは、年に数回イチロー選手や松井選手が西海岸に来たときはもちろん、普段も地元サンフランシスコジャイアンツの試合は何回も見に行きました。

現地校もミドルスクールになると日本の大学のように選択科目が多くなり、生徒によって時間割が違うので、一人ひとりがしっかりしないと学校生活が送れません。音楽の授業ではジャズバンドやコンサートバンドの授業を取り、ドラマ(演劇)の授業やエイドといって下級生の勉強を見てあげて先生のお手伝いをする授業を取ったりしていました。
宿題も多く、ジオラマを作ったりパワーポイントやプロジェクトボードを使った発表も多かったので、家で発表の練習したときに家族で批評しあったのは、良い思い出です。

帰国後すぐに息子が、翌年には娘が高校受験になりましたが、面接やエッセイ、小論文を書くときも、アメリカでのさまざまな経験があるので話題には事欠かず、「何を聞かれても大丈夫だよ」と口を揃えて言っていました。
渡米当初はまったく英語が話せなかったので、簡単な算数の問題も解けずに悔しい思いをしていましたが、そのことがかえって「勉強しよう!」という気持ちに火をつけ、大好きなスポーツをすることで楽しみが増えて更にお友達の輪が広がりました。

何かのきっかけで、英語を学ぶ楽しさと、もっと出来るようになりたいという欲が出てくるのだと思いました。いつでも物事を前向きにとらえ、家族で支え合うことが、海外生活を充実した楽しいものにしてくれるのだと思いました。

ポルトガル語からスペイン語へ

主人からコロンビアへの転勤の話を聞いたのは、サンパウロでの生活を始めて、一年半が経った頃でした。
まずコロンビアと聞いて、一番不安だったのがやはり治安の面でした。それは主人も同じ思いで、ボゴタに5年間の駐在経験のある会社の先輩の方に相談した際、「それは、心配しないで、是非ご家族で行きなさい。とても良い場所で、治安も政策で今、劇的に改善されているらしいし、世間で思われているような所ではない。レンガ作りの街並みに緑が多くヨーロッパの片田舎のようだよ。人も良いし」と、帯同を後押ししてくださいました。

一時は、主人の単身赴任も考えていましたが「パパがかわいそうだから、行くよ!」という息子の言葉で、それまで「今回は無理かもしれない…」と内心思っていた私のモードが一気に逆に入り、その後もお会いしてお話を伺う度に、コロンビアに対するイメージが右肩上がりに良くなり、行くことが楽しみにさえなっていました。
そこからはコロンビア国の首都ボゴタという、未知の地への情報収集と同時に、引越しの準備、サンパウロ日本人学校関係の引き継ぎと、めまぐるしく過ぎ、一旦日本へ帰国の機内では、殆ど眠っていたのを覚えています。

主人はそのままサンパウロからボゴタへの赴任でしたが、息子と私は一旦日本へ戻ってボゴタ赴 任への準備を整えてから、2006年6月にエルドラド空港へ降り立ちました。
銃を持っている警官を街のあちこちで見かけること以外は期待を裏切られるようなこともなく、いきなりスペイン語の世界へ飛び込んで泣きそうになっていた私を、会社のスタッフやドライバー、隣人、アパートの従業員、スーパーやレストラン
の店員さんなど皆が温かく助けてくれたのがとても印象的でした。
家のお手伝いさんも、最初は全く言葉が解からず、意思の疎通ができない中でも当初から家の中のことを日々淡々と誠実にサポートしてくれて、本当に助かりました。

一番の問題は小学校3年の息子の学校をどうするかということでした。ボゴタ日本人学校はあるのですが、サンパウロ日本人学校と規模が違って、当時小学部の男の子の在籍は2名のみ。一人っ子の息子には団体スポーツをさせて色々な意味で人に揉まれて欲しいと考えていましたし、外国語習得の良いチャンスだと思い、インター校を考えていました。
日本人学校へは、夏休みになる前の一ヶ月間「体験入学」という形で通わせてもらいながら、インター校を受験するために毎日英語の家庭教師の先生に来ていただいて、インターに行ったら好きな野球ができる、学校が広いから遊ぶところがたくさんある…と、先生と二人でインター校へ行くメリットを息子に刷り込んでいました。
しかし、アルファベットや簡単な会話だけしかできなかった息子は、英語で英語を教えられることに泣き出してしまうこともありました。最終的に、「野球やりたいからインター行ってみる!」と受験に臨むまで2ヶ月、あっと言う間でした。

インター校は一クラス15~17名の少人数で 担任の先生はカナダから赴任していた、優しい女性の先生でした。しかし、当時学校に日本人の在籍がなく、息子はたった一人の日本人で、全く違う環境の中で不安だろうと、週3位のペースで学校の行事や購入品も分けて買うようにして、とにかく学校へ行く機会を作っていました。学校でチラチラ母の姿を見かける事で、少しの安心感を与えられるかもしれないし、校内では休み時間に外で遊ぶ様子も見られるとの思いからでした。
実際、息子の様子が少しおかしいと感じながら学校から戻った日、担任の先生から「Ryoが今日upsetして泣き出したので、理由を聞いたのですが話したくないようでした。家で何があったのか聞いてあげてください」との丁寧な手紙を貰いま
した。夕食を食べながら何気なく聞いてみたのですが、やはり何も答えませんでした。

それから一週間ほど経ったある朝、時間になっても息子が部屋から出てこないので、行ってみると「学校に行きたくない…」と、ベッドの中にいました。日本での幼稚園から今まで、そんな事はなかったのですが、初めてのインター校、しかも
英語も分からないどころか友人同士の会話はスペイン語という中、大人だって泣きたくなる程の環境、無理もないとずっと思っていましたので、その日は休ませる覚悟でした。
話を聞いてみると、休み時間のサッカーに、自分だけ入れてくれない…という事でした。こんな事もあろうかと思っていましたが、まず親が動揺してはならないと思い、野球好きの息子に「世界の王さんも、監督をしていたチームの成績が振るわなかった時に、球場で卵を投げつけられたことがある。世の中には色々な人がいて、嫌な思いをする事もたくさんある。学校でも悲しい、辛い思いをするけれど、そんな時、自分が間違っていないと思ったら、自分の伝えたいことを日本語でもいいからキチンと言葉にして言いなさい、それから、意地悪をする子にも、あなたはずっと優しくしなさい。そうしているとその子もきっと意地悪をした事を後悔するようになるから」と、二つのことを言い渡して息子の部屋を出ました。

学校へ欠席の連絡を入れて間もなく、制服に着替えた息子が部屋から出てきました。少し遅れて学校の教室まで送っていき、担任の先生に事情を話すと、「分かりました。Ryoにはこれ以上辛い思いをさせないように気を配ります」とおしゃって下さいました。私は「一人っ子のRyoにとって、今はとても辛いけれどいい経験をしているので、これを自分で乗り切って欲しいと思っています」と伝えましたが、教室を出るときには、不覚にも涙が溢れてしまいました。

Elementary からMiddle Schoolの5年間その学校へ通いましたが、いずれも日本人は息子一人(2年後にHigh Schoolには数人の日本人が入ってきました)で、学校の野球チームではピッチャーをして、部活を楽しんでいました。毎年の学年ごとで行く五泊六日のTripも欠かさず参加し、コロンビアの大自然を満喫していたようです。
そのかいがあって、帰国する頃には息子に英語で話しかける友人はアメリカ人だけで、スペイン語で会話する時間のほうが多くなっていたようです。ElementarySchool の卒業時に頂いた「大統領賞」を受け取る、壇上での息子の満面の笑顔を見て、流した涙は決して無駄ではなかったと、親として子供の成長を感じられた嬉しい場面でした。

日本への帰国を伝えてから、家のお手伝いさんは「Ryoがここへ来た時は9歳だった…」と、何度も涙ぐみ、コロンビアに居た5年間の居心地の良さは、人の心の温かさによるものだったと改めて思いました。
不便なこともたくさんありました
し、日本のようにモノに溢れている国ではないけれど、本当の豊かさとは何かを考えさせられました。街の中にコーヒーの香りが漂うコロンビア、家族3人とも大好きな第二の故郷になっています。

海外で教育を受けるということ

12年前の2001年1月末、我が家は小学3年生の長男と生後7か月の長女を連れて夫の赴任地であるロンドンに引っ越しました。もともと海外転勤を希望していた私たちにとってロンドンへの転勤の話はうれしい知らせではあったのですが、い
ざ現実になると子どもの教育の事などが頭に浮かび、…とても複雑な思いがしたことを昨日のことのように思い出します。

今回は、赴任の時にちょうど学齢期だった長男のことを中心にお話ししたいと思います。その頃、長男は小学1年生から続けていた少年野球のチームでピッチャー兼キャプテンというポジションで、とても張り切って野球に打ち込んでいました。そのため、ロンドンへ引っ越すという話をした時にはさすがに泣いて嫌がり、それを見て私達夫婦もせつない気分になりました。
また現地で子どもが通う学校について、夫婦の間で意見がわかれてしまい悩みました。夫は上司のすすめで、言葉の
問題もなくカルチャーショックのあまりない日本人学校に入れることを希望していました。けれども私は長男を現地の学校に入れて、英語や向こうの文化を肌で感じて身につけてほしいと思いました。
夫とは何度も話し合った結果、息子の貴重な経験と視野を広げるためにもと思い現地校に通わせることになりました。今から思えば、私はただ単に自分の「英語を身につけたい」という夢を子供に託したかっただけなのかもしれません。

後日伺った海外子女教育財団の教育相談では、熱くなっていた私の頭を少し冷やしていただくことができました。そこでお話いただいたことは、まず日本人であるからには日本語を身につけることが第一であること。そして現地校とは英語を学ぶ場所ではなく、英語で色々な科目を勉強する場所なので、英語を理解できないと勉強についていけないこと。そして授業の内容を英語で完全に理解できるようになるには3年くらいかかる、ということでした。
私の頭から日本語の教育についての意識がすっぽり抜けていたことに気づき日本語の勉強を継続させるためには週末は補習校に通わせることにしました。さらに親が常に意識して子供に働きかけていかないと、後々子供が日本語で苦労することになると改めて自覚することができました。実際に向こうへ行ってからも、多くの日本人のお母さんたちから、日本語力の維持の難しさについての悩みを聞きました。

現地での生活がスタートし、長男は家から歩いて15分ほどの所にある公立の小学校に通い始めました。近所に住むほとんどの子供たちが通う、こじんまりとした比較的評判の良い学校でした。
登下校には親の同伴が必要で、毎日毎日、娘をベビーカーに乗せて徒歩で送り迎えをしました。天気の悪い日は大変でしたが、毎日近所の子供たちや親と登下校で顔を合わせるので自然と顔見知りになり、親しくなれたことはとても良かったです。
現地校では、ESLのクラスはなく、時々授業中に補助の先生がついて英語を教えてもらう程度だったようです。それで最初の2年半は放課後に週1回英語の個人レッスンに通いました。全く英語のわからない息子にとって理解のできる唯一の授業が算数でしたので、日本と比べると簡単だったようで、計算の問題になるとはりきって手を上げていたようです。そこで褒められ自信をつけたせいか、日本にいたころは算数が特に好きでもなかったのに、いつの間にか好きになり得意科目になっていました。

けれども、性格がどちらかというと内向的な息子にとって言葉が全く通じない環境にいきなり放り込まれたことは、かなりのストレスだったのでしょう。また赤ん坊をかかえて自分のことで精一杯の私は、あまり丁寧に息子にかまってやれず、その頃は学校から帰ってきて、よく私にあたっていました。
ちょうどその時間帯に毎日放送していた日本の子供番組「天才てれびくん」をポテトチップスの小袋を食べながら見ることが、息子にとって何よりのリラックスタイムとなっていました。ところがある日、息子の体型が日本にいた頃よりも何となくぽっちゃりしてきたことに気づき、このままではいけない、とポテトチップスを食べながら見るのをあわててやめさせました。
その時に何かスポーツでも習わせていたら、太らず気分転換にもなってよかったのかもしれません。それでも、いやがらずに何とか元気に学校に通い、少しずつ友達もできて、ゆっくりではありましたがイギリスでの生活に慣れていきました。

中学では、ラグビーに出会い、地元のラグビーチームに入って練習に通いました。そして日本では習ったことのなかった楽器にも挑戦したいと、バイオリンを学校の課外レッスンで習い始め校内のオーケストラに入りました。
また将棋に似ていて覚えやすそうだということで、チェスのクラブにも入り、よく対抗試合で他の学校に遠征に行ったりもしていました。
このように、体育系・文化系問わず同時に色々な活動に参加できたことは、とても有意義なことだったと思っています。そしてこれは現地校に通ったからこそできたことだと思います。

その後2005年9月、長男が日本の中学2年生の時に次の赴任地であるタイのバンコクに引っ越すことになりました。長男は、ロンドンの現地校と同じカリキュラムで授業を行う英国系インターナショナルスクールに進学し、この時には、ロンドンで現地校を選択して良かったと思いました。
もし日本人学校に通っていたら日本人学校は中学までしかない為、バンコクの日本人学校に少し通学した後は母子での帰国も考えたと思いますので、家族全員で一緒に暮らせる期間がとても短くなっていたでしょう。

現在、長男はバンコクのインターナショナルスクールを卒業したあと日本の大学に通っています。結局日本の学校に通ったのは3年弱でしかありませんが、日本語に不自由することもなく、日本の大学で学ぶことができるのは、本人のそれまでの努力や環境にもよりますが、年齢的なタイミングもよかったのかな、と感じています。
転勤時に日本語の基礎がすでに身についた年頃であったからこそ、英語の習得には時間がかかりましたが、日本語力は何とか維持できたのだと思います。現地校に通わせたことで、子供に大きな苦労を強いることにもなりましたが、それ以上に得たものも大きかったと信じています。

スローペースで前進中

5年7ヶ月の海外生活を終え、娘は今年4月に初めて日本の学校で小学校6年生となりました。帰国した時点で翌年の中学入試まで1年を切った状況に、親である私は焦りを感じておりました。当初、私は「勉強しなさい。漢字は?算数は?」と言い続けましたが、娘にとっては受験勉強どころではありませんでした。
それまで英語環境で教育を受けてきた娘は、初めての日本の小学校の文化に揉まれ、同級生が使用する独特の言葉遣いにも戸惑っていました。他に帰国子女はおらず、慣れない学校生活に順応していくことで精一杯でした。また、受験という概念がなかなかピンとこない娘にやる気が出るはずもなく、私はひとり空回りしていました。

そんな私を見透かしたように、実家の母が言いました。「あなただって、高校生になってからでしょ、やる気がでたのは・・。」そうでした。勉強に対して私のエンジンがかかったのは、高校生になってからでした。やる気は本人が自覚しなければ出ないことをすっかり忘れていました。
11歳といえども、娘は一個の別人格者。あれこれ頭ごなしに指図できないと反省し、ある日、夫、私、娘の三者会談を開いて、娘の気持ちを確かめました。学校の宿題程度しか勉強していなかった娘でしたが、自分と同じような帰国子女のいる中学校に通いたいという気持ちは強いものでした。
その話合いの後、日々こなす学習内容を娘と決めました。「せめて、これだけはやろうね」程度の学習量なので、受験生の勉強量には到底及びません。しかし、塾の宿題すらこなせなかった娘も、最近はようやく頑張り始めています。

小6の秋。つい半年前までは英語の本しか手にしようとしなかった娘が、最近は日本語の推理小説のシリーズものに夢中になっています。親としては嬉しいやら、心配やら。娘のエンジンのかかりは悪いものの、本人は本人なりに頑張っています。
学力テストの結果に一喜一憂しつつ、今の頑張りは娘のこれからの人生にとって必ずプラスになると信じて日々を送っています。どのような結果であれ、来年の4月は笑顔と希望に満ちた春を迎えたいと思いながら、学校説明会参加の日々が続きます・・・。

帰国後の学校選び

学齢期の子どもにとって、父親の転勤は必ずしも区切りの良い時期に当たるとは限りません。我が家の場合も夫にタイからの突然の帰国命令が出たのは、娘がインターナショナルスクールの11年生、息子は日本人学校の中学1年生の12月でした。

調べてみると高校3年生から編入できる学校は極端に少なく選べる状況ではありませんでしたが、家族と一緒に帰国したいという本人の希望もあり、3月の編入試験を受けることにしました。
只、息子のことを考えると、できれば1年生を終えて2年生から編入できる方がショックも少ないので、娘の編入試験の日のぎりぎりまで逆単身赴任の期間を過ごしました。」 一方、息子は横浜の市立中学校の2年生に編入しましたが、海外に住んでいると、とかく日本の公立校の悪い情報ばかりが耳に入り、学校崩壊やバタフライナイフでの殺傷事件とかの心配をしていましたが、そういう事は一切ありませんでした。

タイではバスケット部とテニス部に所属していましたが、日本では二つは無理なのでバスケット部に入部しました。「中学時代の思い出で辛かったことは?」と聞かれると「バスケット」と答え、「楽しかったことは?」と聞かれると「バスケット」と答えるほど部活中心の生活でした。
一般受験で私立高校に入学しましたが、今でも週1回、夜の7時から10時頃まで行われる中学校のOB会には参加しています。自分が在籍していたときにはもう卒業していた先輩と顔を合わせることもでき、縦の繋がりが受け継がれています。地元の学校ならではの良さではないでしょうか。

娘の中学受験

カリフォルニア州に2年、コネチカット州に5年の通算7年間のアメリカ生活でした。娘は5歳で渡米し、現地校で教育を受け、帰国の時には小6になっていました。
アメリカでの生活をエンジョイしながらも、現地校と日本語の勉強の両立には苦労しました。学年が進むにつれて宿題やテストに追われるようになり、その上、国語と算数の勉強をするわけで、しかも、友達とも遊びたいと言うので、お風呂の時間が無くなった事もしばしばでした。
私立校の帰国枠受験を考えていましたので、現地校での成績も気にしながら、受験のための塾に通わせていました。

受験校を選ぶため、帰国してすぐにいくつかの中学校の文化祭、体育祭、説明会などを見て回りました。
結局、娘にとっては帰国子女のためのクラスのある学校より、一般生といっしょで特別扱いされない方が良いのではないか。学習面の後れも徐々に克服できるのではないかと考え、帰国子女のための特別な配慮はないけれど、校風やその他が気に入った学校を選びました。

運良く志望した私立女子中学に合格する事が出来ましたが、入学してほっとしたのもつかの間、学習面で相当の努力が必要なのだと思い知らされました。先生方があたたかく励ましてくださり、本人も意欲をもって頑張っていますので、だんだんと勉強の遅れも取り戻しつつあります。友達にも恵まれ、テニス部に入って活き活きと充実した中学生活をおくっています。

双子の高校受験

双子の息子と娘は、幼稚園から小3まではインドネシアのジャカルタ、小6から中3まではニュージーランドのオークランドで過ごしました。
主人の赴任の関係で高校受験を考えざるを得なくなった時は、すでに中3の2学期、それから合格発表までは怒涛の3ヶ月でした。ニュージーランドでは12月初旬で学年が終わり2月まで長い夏休みです。それを利用して日本に戻り、帰国子女枠受験に備えました。

ホリデーに入る前に必要書類を揃えなければなりません。二人が通っていた現地の小学校、中学校に何度もお願いに伺いました。先生方は親切に対応してくださり、頑張るよう励ましてくださいました。
学年修了証と成績証明書を抱えて12月末に帰国し、すぐ帰国子女のためのコースのある塾に入りました。子供たちは塾通い、私は願書書きに追われる毎日でした。
お正月返上の受験生に混じり、最初は戸惑うことばかりだったと思います。しかし、世界中から集まってきた帰国生とはすぐ仲良くなり、塾通いにも慣れてきました。このお友達の影響力は大きかったと思います。

塾の休みの日には子供たちと共に学校を訪問し、先生にお会いしてお話を伺ってきました。二人とも自分で見て、聞いて、質問をしたことでモチベーションが高まりました。
面接、作文のための準備は自分達の滞在した国について考えをまとめる良い機会となりました。自分の意見を表現することによって、理解が深まり、その国と人をますます好きになったようです。
二人とも希望の学校に入学できたのは、目標にむかって集中できたからだと思います。今、生き生きとして高校生活を送っております。

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