海外赴任の準備
海外生活体験者のレポート「フレンズ 帰国生 母の会」投稿より<2>
この記事で書かれていること
ある出会い
私は1988年から1994年、2002年から2004年を夫の海外赴任に同行し、シカゴで過ごしました。そして赴任中に2度出産、4度の手術、乳癌手術後のフォローアップを経験いたしました。
アメリカでは、加入する保険により病院と医師(その病院に属する)を自分で選ばなければなりません。それでは、医師を選ぶ時、何を基準にしたら良いのでしょうか。どうしても日本語の話せる医師でなければと考える方もいらっしゃるかもしれません。確かに言葉の壁は避けることのできない問題です。
けれども何よりも大切なことは自分が望む治療を納得して受けるということではないでしょうか。
自宅から遠い日本人クリニックではなく、近所で開業する医師たちを選んだ我が家の場合、診察に辞書、ノート、ペンを携帯することはあたりまえのことでした。初めての子育てに戸惑う私を優しい笑顔と言葉で励まして下さったのは小児科医でした。
2002年、8年ぶりの再会の時、彼は、乳癌手術後3年目を迎えフォローアップが必要な私に癌専門医を紹介して下さいました。医師は常に私に「あなたはどのような治療を望むのか、不安なことはあるか」と尋ね、治療におけるリスクとベネフィットを丁寧に説明して下さいました。生存率だけでなく患者のQOL(クオリティー・オブ・ライフ)を最優先に考え、患者と共にあろうとする医師に出会えましたことは再発の不安を持つ私をどれだけ癒してくれたことでしょう。
子供たちをバス停まで連れて行って下さった友人たち、夕食を届けて下さった友人たちは、厳しい治療、流したたくさんの涙とともにかけがえのない思い出です。多くの人々に支えられたシカゴでの日々に心から感謝したいと思います。
モスクワ滞在記
2001年6月から2004年7月までモスクワに滞在しました。(途中半年は出産のため日本に帰国)モスクワには日本人学校があり、小1から中3まで当時80人規模のアットホームな雰囲気で、小2の娘ものびのびと過ごしました。高校になると、モスクワにあるインターやイギリス系の学校に行くか、ロンドンやドイツにある日本の私立校に行く場合が多かったです。
治安の面では、地下鉄や劇場でのテロがあり、車での移動が主な交通手段です。冬も長く、運動不足になりがちなのでスポーツクラブに通う方、テニスを習う方、手芸や料理を習う方などみな工夫して暮らしていました。
日本食はブームで多くの寿司バー、日本食レストランができていました。納豆や漬物も日本食を扱うストアーで手に入れることができますが、日本で買う4倍の値段です。いつも欲しい品物があるとは限らないので、見つけたときに、買いだめしていました。食料は、外資系のストアーで買いました。野菜、果物は、マーケットで買いたいところですが、すりがいたり、と危険なのでお手伝いさんやドライバーと一緒のときに限られました。
モスクワ、と聞いて「行列、品不足」と想像していましたが、街にはものが溢れています。24時間営業の店も多く、高度経済成長期の日本のように活気に満ちていました。しかし品質の良い外国製品は日本で買うより高く、安いものはすぐ使えなくなります。慣れぬ海外暮らしでは買い物も一仕事。荷物に余裕があれば、洋服は日本から持っていったほうがいいと思います。また厚手のタイツもなぜか当地にはありません。ホッカイロも便利です。帽子、コート、靴は当地で買いました。コートも今は軽いダウンコートが主流です。
医療の面では、日本大使館の領事部に日本から医師と看護士が派遣されており、風邪などの病気には十分対応してもらえました。アメリカ、ヨーロッパ系の病院もあり、日本語の通訳がいる病院もありますが、入院には対応できないので、手術が必要な場合はフィンランドやパリに輸送される場合もありました。
出産はモスクワで、ということもロシア語が堪能な場合は可能なようです。しかしほとんどの場合は日本に帰国しての出産となります。私の場合も検診をヨーロッパ系の病院で受け、日本に帰国して出産しました。
初めての海外生活で不安でいっぱいでしたが、メイドと運転手に恵まれ、多くの人に支えられ、無事に過ごすことができました。普段は無愛想なロシアのお役人も子どもには寛容で、子育て中だからこそ感じた優しさもありました。
ロシアは対日感情もよく、日本人に対する信頼が厚いことも幸いでした。
国の体制をはじめ、変化の激しい社会で逞しく行きぬくロシアの人々、情に厚く時におせっかいな人々に出会えたことは大きな財産です。
広い視野で考える大人に
テヘランに駐在が決まったとき、まず子どもの受験をどうするかという問題にぶつかりました。そのとき長女は小6の1学期、中学受験の追い込みの時期でした。娘の「私だけ日本に残して受験させて。」という言葉に迷いもありましたが、話し合いの末、一家4人と犬1匹でテヘランに行くことにしました。
娘の通っていた塾の好意で夫の会社経由でテスト問題を6年の最後まで送っていただきました。その後テヘラン日本人学校に中1まで通い、中2から本人の希望で帝京ロンドンに編入し、寮生活が始まりました。
13歳から1人暮らしをさせることの不安は、親にとっても大変なものでしたが、そこでの経験は思っていた以上に大きな成果を生みました。中3の12月末から2月末まで高校受験のため帰国、親子で学校訪問をしたり、受験校選びに悩み抜きましたが、結果的には希望校に編入させていただきました。
子どもの受験に至るまでの育て方を振り返ると、現地の人との触れ合いを大切にすることが、その後の成果に大きく寄与すると思います。両親に現地の人との交流があれば、自然と子どもたちに交流ができます。その国の料理を作ったりしていると、頭で考えている以上に、その国の文化に馴染んでいくようです。このような日常的な一寸した配慮が大切に思われます。
イランとイギリスからの帰国子女枠での受験を通して、日本の学校の受け入れ態勢の温度差も経験しました。どこで生活していても子どもたちにその国の良いところを学んでもらい、海外生活の自信をつけるよう親が心がけて育てていくと、社会に出たとき、広い視野で考えられる大人になるのではないでしょうか。
それぞれの道へ
夫の2度目の海外駐在がブラジル、リオデジャネイロと決まり、私と子どもたちが出発したのは、息子が中2、娘が中1の12月の末でした。一番心配だったのは2人の子どもの教育でした。
リオには日本人学校があるものの中学部を卒業したら、リオのアメリカンスクール、日本へ帰国しての高校受験、在外私立の日本の高校のいずれかを選択することになります。その決定まで、息子は1年間、娘は2年間が与えられていました。
結局一度目の海外駐在であるアメリカでのゆったりとした生活が気に入っていた息子は、リオのアメリカンスクールへ、日本が大好きで、リオに行くのをいやがっていた娘は、日本への帰国を選びました。
親としては2人が同じ選択をしてくれたら、経済的、精神的、肉体的にずっと楽だったと思いますが、2人がよく考え、自分で決めた進路に親はできるだけ応援してやることにしました。
たとえばブラジルでは日本の高校、大学の受験情報がほとんど手に入らなかったため、情報を集め、子どもたちに示してやりました。娘のときは学校案内で、通ってみたいと思う学校を選び、中2の冬休みを利用して、私と娘の2人で一時帰国し、高校を訪問しました。息子のときは大学案内で受験したい学校、学部を本人が選び、在留証明書などの必要書類の手配を助けてやりました。
ブラジルでの生活は子どもたちにとって、どんなことがプラスとなり、どんなことがマイナスとなったのでしょうか、その答えは私には計り知ることができませんが、きっと子どもたちそれぞれの気持ちの中で、いろいろな思いとなって膨らんでいることと思います。
真夏のシンガポール
1992年の秋にシンガポール赴任となった夫を先に見送ってから、冬に生まれた長男が5か月になった1993年5月に渡星して、私たち親子3人の新生活がスタートしました。その後1999年までの約6年間、経済成長著しいシンガポールで初めての海外赴任を経験できたことはとても幸運なことでした。
私たちが選んだ居住地はダウンタウンから20km離れた北西のジャングルエリアにある大きなコンドミニアムでした。
一般的に、外国人などが住むコンドミニアムは敷地を塀で囲まれており、門番もいてセキュリティーは守られています。また、郊外で大型になりますと、居住者用の大小の屋外プールやテニスコートが数面あり、子供用の公園や保育園、キャンティーンというレストランや売店、美容室などが併設されていて育児のしやすい環境になっていることが多かったようです。
私たちが入居した当初は、新築ということもありご近所に日本人は少なかったですが、帰国の頃には100世帯ほどの大所帯になっていました。
かの地で「遠い身内より近くの他人」肩を寄せあいともに助け合って、ともに苦労し育児をしてきた友人達は今でも心の大きなよりどころになっています。無我夢中の子育てでしたが、当地での一番の大きな出来事は、長男が2歳の頃に次男を出産したことでしょうか。出産するための病院探しに始まり、日本語通訳での母親教室に通ったり、産後の住込みのお手伝いさんに来てもらったりと、異国の中での経験は暗中模索の日々でした。
出産当日は友人が長男を一晩預かってくれて、息子は眠れぬ夜を過ごしたようですが、おかげさまで安心して産院に向かうことができました。
出産体験で驚いたのは、日本的な自然分娩が当地では推奨されていないということでした。共働きが普通のシンガポーリアンは、無痛分娩をごく当たり前に選択し、産後3日ほどで退院して早々に社会復帰するらしいのです。
Labor(労働)とも訳される出産ですが、産みの苦しみなど無用なこと、出産に対する日本的な神話は一笑に伏されてしましました。私は次男で2度目のこともあり自然分娩を踏襲しましたが、無痛分娩を体験した方々は産後の肥立ちも早くて、海外での出産がこんなに楽なものならお勧めだということでした。
また、占いや縁起を担ぐ華僑の人らしく、計画出産を好むという違いもありました。分娩室の廊下には親戚一族郎党が駆けつけ、何時何分何秒のちょうどに帝王切開で赤ちゃんを取り上げてもらう、という大騒動な展開もあるらしいです。
もう一人ぐらい産んでもよかったかなと思える、うらやましいようなハイテク
出産システムでしたが、私が手にしたのは次男の出生証明書の一枚だけでした。
ともあれ、出産前から掃除のお手伝いさんに週2回来てもらい、産後は日本から親族が来るまでの1か月間、住込みで育児を手伝ってくれるお手伝いさんを雇えたことは、日本ではあり得ないことでしたので大変ありがたかったです。一年中、常夏ですので育児もとてもやりやすかったのではないかと思います。また、幼い長男を敷地内の保育所に預かってもらえたのも助かりました。
私たち夫婦が心配したのは、母国語ではない教育でした。日本のお友達がいない現地の保育所で、シングリッシュといわれる英語とマンダリン(北京語)という中国語での毎日を日本語もおぼつかない長男に送らせていました。人なつっこい朗らかな息子でしたが、異次元空間に放り込まれて不憫でもありました。親子とも辛抱の中、じきに日本語と同じぐらいに片言の英語を口にするようになっていました。
年少時になりだいぶ慣れてきた頃、しっかりした英語教育が施され、日本人が何人も通っており、高校まである近隣のカナディアンインターナショナルスクールに、迷いながらも編入学させることにいたしました。
しばらくすると日本人幼稚園バスも近隣まで送迎してくれるようになりましたが、夫婦で話し合った結果、遠距離のバス登園よりものびのびしたインターの校風も気に入っていたため、転校させることなくそのまま3年間通わせることにしました。なにより、息子がインター校を大好きだったことが大きかったです。
周りには日本語の遅れを案ずる方々もいましたが
「勉強以上にどこでも生きていけるタフさと柔軟な適応力を持てる子に、成功よりも成幸な人生を」というのが希望でした。「いずれ、日本で仕事が探せないような時代が来るかも」という予感もありましたが、皮肉にもそんな現実がてしまいましたね。
その様に決心したものの、息子への日本語教育ではいろいろと工夫しました。後々、日本語力の低下がボディーブローのように効いてくるという脅かしも心を悩ませましたので、夫婦での毎晩の本読みや日本人会のイベントへの参加など日本文化を日本にいる以上に意識した生活をしていました。
また、幸いにも、敷地には日本人の友人がたくさんいましたので、帰宅すると日本人と遊ぶのが日課になっていました。インターでの国際交流も楽しみつつ、2倍のお友達ができたことは今の息子にとって大きな財産になっていると思います。
私も中国語を学んだり、中国書道を習ったり日本では味わえない貴重な体験をすることができました。また現地の人々やインターナショナル校でのかけがえのない出会いを楽しみました。
帰国の際のチャンギ空港で、現地スタッフから贈られた花束と万感の思いを胸に、夫に続いてお別れのスピーチをした日が忘れられません。
大切な思い出
我が家は長女6歳、次女3歳の時、バンコクに赴任しました。それから約9年バンコクで生活しましたが、その間にかけがえのない出会いがあり、また忘れることの出来ない数々の出来事がありました。
長女が中学1年生の時、クラスに1人の障害を持ったお子さんがいました。そのお子さんも一緒に参加した合唱コンクール・遠足・古典の暗記テストなどその時その時をクラス全員で、ひとつひとつ話し合いながら子供たちはクリアして行き、次第に団結力のある、そして優しさ一杯のクラスに成長していきました。
その思い出の1つにバンコク日本人学校の運動会があります。運動会での人気種目の1つがオールスターリレーでした。これはクラス全員でバトンを渡して行きゴールを競うクラス対抗リレーです。子供たちは休み時間を全て使って練習しますが、長女のクラスは運動の不得意な子も多く不利でした。勝敗にこだわらず、全員がコースを間違えずに走り、無事バトンを渡すことが出来、ゴールできればそれで十分でした。
そんな子供たちの地道な作業を見ていたもの静かな担任の先生が「出来ないことはないんだよ。全員リレーなのだから、皆で相談をして作戦を立ててごらん?もしかしたらこのクラスでも勝てるかもしれないよ。チームワークで勝てることもあるよ」と励ましてくれました。それから子供たちは皆で来る日も来る日も話し合いをして知恵を出し合いました。
まず、○○君は一番が大好きな性格なのでできるだけ他のチームと距離を離して一番でバトンを渡してあげられるように順番を考えました。コースも丹念に教えてあげ、バトンを渡してあげたら「○○君一番だよー!」とクラス全員で応援してあげることにしました。
残りの子供たちは足の速い→遅い→速い→遅いと順番を組みバトンを渡すタイミングをできるだけ足の速い子が長く走るよう練習しました。少しづつタイムが上がっていき、どの子もオールスターリレーに勝ちたいと思うようになっていきました。長女は毎日帰ってくると練習の成果を話してくれ、小学部の次女も次第に姉のクラスを応援するようになっていました。
そして、当日子供たちは作戦どおりにバトンを渡して行き、○○君は1番前を抜かされることなく満面の笑みで走りぬき、アンカーの子が一番でテープを切ることが出来ました。
担任の先生が一番最初に泣き出し、子供たちは先生を囲んで大喜びでした。雨季明けの爽やかな乾季の空一杯に広がったクラス全員の笑顔でした。
「このクラスに入って○○君の書く字が笑うようになったんです。」といったお母さんの言葉通り子供たちにとって忘れることの出来ない素晴らしいクラスでした。
このメンバー・この先生と再びいつか大人になったら必ず会いたいと思いながら子供たちは日本全国・世界各国へとそれぞれバラバラに別れていきました。「出来ないことはないよ。」といった先生の言葉と涙が忘れられないでいます。
異国の地で子どもたちは戸惑うこともありますがスクールバスで、学校で、或いはマンションでタイの人々に助けられながら過ごします。
そんなタイの人々の優しさのおかげで、子供たちは立場の違う人の言葉や心の動きに、耳を澄ますことができるように成長してくれたことに感謝しています。
大学受験まで
息子の大学受験までの数年間をさかのぼり、記憶をたどってみました。大抵の方々がそうであるように、大学受験は本人が主導で進めますから、親ができることはほとんどが経済的な支援、そして、あとはじっと見守ることくらいでしょうか。
息子は中学2年の夏から高校卒業までをロンドンで過ごしました。最初の1年半はインター校で過ごしましたが、これは親の意向でした。転入してしばらくはまわりに慣れることで時間が過ぎていきましたが、間もなく意欲をなくしていく様子に気付きました。
言葉や人間関係について苦労することは充分想像していましたが、力を発揮できるはずの理数科目をはじめ勉強面に面白みを感じられなかったようです。
イギリスの教育システムにあるGCSE(中学卒業資格にあたる試験)の準備に入る頃、息子から日本の在外私立高校に転校したいとの申し入れがありました。イギリスにある在外校2校を見学し、息子が選んだのは、ロンドンから車で2時間の全寮制の学校でした。とても規律の厳しい、テレビはもちろんスポーツや音楽以外にこれといった娯楽もない学校を選ぶわけですから、よほどの決心だったのではと思います。また、今思うに、勉強面でのこともあったでしょうが、親元から離れてみたいという気持ちもあったかもしれません。
海外での生活は家族で過ごす時間が多くもてるという良い面がありますが、反面、思春期の子どもにとっては閉塞感も大いにあったと想像します。
入学後は夏休み、冬休み・・と家に戻るたび精神的に肉体的に成長していく息子が眩しいようでもありました。
息子は親元を離れ、親の目の届かないところで思春期の自分を確立していきましたし、ある部分は先生や友人たちに育てていただいたといっても言い過ぎではないという気がしています。
そんな中での受験でしたので、親の言えることは目的を持って勉強して欲しいということだけでした。同級生と一緒に生活をし、お互いに刺激しあいながら切磋琢磨するという理想的な環境の中、息子は自分の進む方向を見つけていきました。
入学後まもなく数学と化学の世界に引かれるようになり、高校2年生の夏に大学キャンパスを見学し受験先をしぼり、3年生の夏には一人で帰国し予備校に通いました。現在、化学を専攻していますが、それを思うと無理をしてインター校に行かせないで良かったと思います。
結果、親ができたことはやはり経済的な支援と体調管理、そして息子の決心を尊重することでした。
今も寮で過ごした友人達とは良い付き合いが続いています。この経験と財産は何にも増して大事にして欲しいですし、何かしらの目的を持って人生を送っていって欲しいと願います。
インター校からの高校受験
3年あまりのインドネシア・ジャカルタでの生活を終え、数ヶ月間の日本での生活をはさんでオーストリア・ウィーンへと飛び立ったのは、長男が小学校6年生、長女が小学校1年生の夏でした。
ジャカルタではそれぞれ日本人学校と英語で学ぶ幼稚園に通っていましたが、ウィーンでは二人とも同じインターナショナルスクールのMiddle choolとPrimary Schoolに通学することになりました。予想されたことですが、当初は、英語の環境に慣れ、のんびりとしたPrimary Schoolに入った長女に比べ、英語があまりできずにMiddleSchool 2年目の7年生に入った長男は、授業についていくのと日本の学校とのシステムの違いに慣れるのに苦労していました。
それでもいろいろな面でウィーンでの生活を楽しめるようになった頃、今度は主人の赴任期間の終わりが見えて来て、長男の日本での高校受験を考える時期になりました。
しかし、補習校も進学塾もない環境で初めて経験する受験であり、現地で集められる情報は微々たるもの。本人も日本の高校生活、そして受験のイメージがなかなかつかめないようでした。
そこで夏休みの一時帰国の際に、フレンズの「学校案内」を手に入れて研究したり、帰国生受け入れ校が集まるフェアに参加して話を聞き、数校は実際に学校まで足を運んで少しでも学校の雰囲気をつかめるようにしました。
けれども、夏休みが終わりGrade 10の授業が始まると、宿題、課題やテストも多く日々の勉強に追われて受験勉強は一向に進まず、結局本格的に受験用の勉強に取り組んだのは、入学試験を受けるため1月に日本に一時帰国した際受講した帰国生用の塾の「直前講習」での約一ヶ月間のみでした。
その間、インター校の方は、受験が終わったら戻って帰国までまた通いたいという本人の希望でお休みさせていただきました。
外国から直接の受験だった為、高校への提出書類で夏休みに手に入らなかった分は一旦高校から国内の親戚宛に送ってもらい、そこから私どもへ転送をお願いしました。
書類への記入ミスをし、もう一度同じ手順で書類を送ってもらうはめになり、親戚に迷惑をかけてしまったこともありました。慣れない書類への記入や作成で不明な点は、たびたびメールや国際電話で直接高校の担当の方に問い合わせて解決していきました。
学校選びでは、今まで習得した英語を生かせること、帰国生が多くなじみやすい環境であること、そして実際に足を運んだ中で長男が通いたいと思った学校等を考慮し数校を受験しました。幸い合格をいただけた学校があり、入学後は勉強、部活と忙しいながらも毎日充実した高校生活を送っており、ソフトランディングの目的は果たせたと親としてもほっとしています。
親の都合で何度も見知らぬ土地で新しい環境に挑んでいかねばならず、子供達も大変だとは思いますが、外国人としての海外経験、母国日本での経験を、本人の中でどちらも否定することなく、プラスにして積み重ねていければと願っております。