渡航前の医療
海外駐在の救急医学「海外での病院のかかり方」
この記事で書かれていること
はじめに
最新の2013年の外務省統計によれば、601名の日本人が海外で死亡し、そのうちの70%が病死です。それを海外旅行保険会社が公表している資料と突き合わせると、この病死の原因のほとんどは心筋梗塞や脳卒中です。
これを基にした推計では、その30倍の重症患者が毎年入院しており、その300倍の日本人が旅行中に心臓疾患や脳疾患を発症していることになります。
日本国内では、日本脳卒中学会が開催中される期間、全国紙一面に「普段経験したことのない激しい頭痛、片側の麻痺、ろれつが回らないなどの症状が出たら、1分でも1秒でも早く救急車で専門病院へ!」と書かれた学会広告がよく見られます。
また、心筋梗塞を疑わせる胸痛発作が起こった場合にも、1分でも1秒でも早く救急車で専門病院にかかります。
カテーテル治療を行う循環器病院においても、患者到着後、詰まっている血管にいかに早くカテーテル治療を行うか“door to balloon time”を短縮する努力がされています。
しかし、日本人海外旅行者や駐在者には、これらの原則がまったく守られず、手遅れになってから専門病院にたどりつくケースが多々あり、海外の救急医より、批判とも言える声が今日でもしばしば聞かれます。
その手遅れとなる一端は、“言葉の壁”を越えるツールである英文の「旅行用診断書」やその普及版である「自己記入式安全カルテ」が、日本人海外旅行者や駐在員、そして留学生に広く普及していないことが挙げられます。
しかし、その手遅れの最大の原因は、海外に出かける日本人が“海外での病院のかかり方”をまったく知らない、あるいは海外で誤った病院のかかり方をインプットされて行動することにあります。
2つの“救急”カテゴリー
日本人旅行者や留学生、駐在員が、海外で病院にかかるケースの大部分は“救急”です。
これは、①命にかかわる救急のケース(脳卒中、心筋梗塞、交通事故など)と、②命にはかかわらない救急ケースで、発熱、腹痛、下痢、ねんざや骨折、縫合を要するけがなどです。
当然、①は、頻度は低いものの対応を誤ると助かるべき命が失われ、未然に防げた片麻痺などの合併症で患者が一生苦しむ事態が起こります。
一方、②は、“一分でも一秒でも早く専門病院へ”という必要はなく、日本国内ではクリニックや一般医の対応で十分なケースです。
日本と海外の救急医療現場の差異
医療費の高い欧米では、「かぜをひいたらアスピリンと温かい飲み物を摂って十分に寝る」「下痢をしたら市販のぺラミドを飲む」「小さなケガは水道水で十分洗い、ばんそこうをはる」といったセルフトリートメントで対応します。
一方、国民皆保険で、窓口負担金の安い日本では、かぜや下痢でも飛び込みでクリニックを受診し、小さなケガでも抗生物質で感染予防をするといった一般医療が普及しています。
最近、カナダや米国の大都市でも、日本の診療所に似た予約無しで診察てくれる“Walk-in clinic”が増加していますが、まだ一般的ではありません。
海外では、GP(General Practitioner :一般医あるいは家庭医)を予約して、診療を受けるのが一般的です。当然ですが、このシステムでは、当日に診てもらうことはできません。
したがって、発熱、下痢、腹痛、けがなど、日本国内では近くの診療所にかかるケースでも、すべてER(Emergency Room:大病院の救急)、またはイギリスやカナダでは、A&E(Accident & Emergency)にかかります。
事実、パリ市内のスーパー近代病院であるジョージボンピドー病院のERでは、タクシーや自家用車で乗りつける人が90%以上です。この事情は、バンクーバージェネラルホスピタルでも、トロント郊外の中規模コミュニティ病院のERにおいても、まったく同様です。
つまり、海外では発熱、下痢など命にかかわらない救急ケースも、交通事故、脳卒中、心筋梗塞などの重症ケースでも、大きな病院のER(またはA&E)に自家用車、タクシー、そして本人が動けない場合は救急車で乗りつけます。
しかし、日本の大病院の救急部に自家用車やタクシーで乗りつけようものなら、守衛やガードマンに追い払われます。
したがって、日本人は、医師でさえもが「どんなささいなけがや病気でも、自分が救急と思えば、ERへタクシーでも、自家用車でも徒歩でも行けて、受診できる」という海外の医療の一般常識を知りません。
ERでのトリアージ
日本でも、災害医療の現場での災害医療トリアージ(重症分類)は、一般に知られるようになりつつありますが、ER(あるいはA&E)では、日常的に救急医療トリアージが行われています。
国によって、その色分けは多少異なりますが、ただちに診察治療をすべき心筋梗塞や窒息などの“レッドグループ”、大出血などで5分以内に診察するのを“オレンジグループ”、15分~30分位で診察すべき“イエローグループ”、30分~60分待つことが可能な“グリーングループ”に、1~2名のベテラン看護師が、必要な情報と血圧や酸素飽和度、聴診、視診などを基に分類します。
この点も、来院順あるいは予約順というシステムをもつ日本の診療所とは大きく異なります。このトリアージを知らない日本人患者の一部には、「海外の救急外来では人種差別をされ、長時間待たされた」などといった思い込みをもった人も少なからずいます。
しかし、米国であれカナダであれ、そしてヨーロッパの国々も、今日では、ほぼ全ての国が移民大国のため、日本人が、あるいは東洋人がERで差別されることなどは全くありません。
海外でのホテル選びやレストラン選びで問題が生じても、大した実害はありません。
しかし、救急医療での手遅れや不適切な病院選びは取り返しのつかない実害が生じます。英文の旅行用診断書あるいは安全カルテをしっかり用意して、合理的なERシステムを上手に利用してください。
海外赴任に備える診断書「日本とは異なる海外の医療現場」
「旅行用診断書」は、旅行者等が海外で緊急に医療行為を受けることを想定して、必要な医療状態をまとめた文書です。
日本では、医師法に定められる「応召義務」により、医師側が診察を拒否することはできません。
しかし、インフォームドコンセント(相互に情報を出し合っての合意)が重視されている海外では、医療機関・医師も患者に十分な情報提供を行いますが、患者も自分の健康状態や医療情報等を提示しなければならない、という考え方が根付いています。
そのため、海外で日本人が医療機関を受診したとしても、言葉が通じないなど、医療側が「診断や治療に必要な情報を得られない」と判断した場合は、治療を拒否されることも起こり得るのです。
「緊急時」を想定し、必要な情報を簡潔に記載
前述のような事態を回避し、海外のどこでの医療機関においても適切な治療を受けるために必要なのが、英文の旅行用診断書です。
持病がある人の場合は、その病名・既往歴・治療経過・服薬状況を英文でまとめた診断書を持参して現地の医療機関へ提示すれば、たとえ本人が英語を話せなくても、必要な医療情報を提供することはできます。
診断書を用意するにあたっては、診断書がどのような状態で必要とされるかを念頭に置く必要があります。基本的には「緊急時」への対応を想定して記載します。一目で内容を把握できるよう、A4版の用紙一枚に必要な情報を厳選し、簡潔明瞭に記載します。
高齢者の場合、いろいろな診療科にかかっていることが多いのですが、その中から緊急医療の視点で情報を取捨選択してまとめなければならないため、医師としての技量が問われるところでもあります。
旅行用診断書で必要となるのは、①診断名(および高血圧症、脂質異常症、糖尿病の危険因子についての情報)②既往歴(特に不整脈や狭心症などの心血管系の既往歴がある場合は必須)③喫煙歴 ④家族歴⑤アレルギー・喘息についての項目です。特に、アレルギーや喘息については、海外で投薬を受ける際には必須の情報となるため、ない場合も“He/She has no food or drug allergies.”等を明記することが必要です。
旅行用英文診断書作成のポイント
「緊急時」を想定して、その人の医療情報を、A4版の用紙1枚にまとめる
一目で内容を把握できるよう、簡潔にまとめる
時系列でなく、重要度順に書く
アレルギーに関する情報は必ず記入
なお、持病がない人でも、旅行用診断書は旅行先等で役立ちます。
脳卒中や心筋梗塞は前兆なしに発症する場合もありますし、あまり考えたくないことですが、交通事故等にあってしまうケースもないとは言い切れません。
「特に注意を要する持病はない」ということも有用な情報になります。
旅行用診断書の普及版「自己記入式安全カルテ」の活用
主治医に、旅行用診断書を作成してもらうことができれば安心ですが、医師にとっては手間と時間がかかるうえ、診断書の作成方法を知っている医師の数もまだまだ限られているのが現状です。
そこで、日本旅行医学会では、基本的な情報を自分でも記入でき、また主治医に必要な事項を記入してもらえば簡易版の旅行用診断書としても使える「自己記入式安全カルテ」を成人用・学生用・小児用の3種類を作成・販売しています。
(大手書店・日本旅行医学会ホームページ こちらを参照)
成人用
個人データの記入から始まり、持病のある人向けに、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの情報、過去の病歴・手術歴や服用している薬について、該当する項目をチェックするだけで簡易版の診断書として必要な情報をまとめられます。
また、医師のサイン欄も設けてあるため、入国審査の際などには薬剤証明書、診断書としても使用することができます。
学生用
個人データ、予防接種記録、気管支喘息、薬物アレルギー、食物アレルギーなどの持病についての記入欄があります。
学生用の特徴としては、「未成年者の治療に関する同意書」が記載されている点です。
これは未成年者や扶養を受けている学生が医療機関で診察を受ける際に必要な書類で、この同意書がないと米国などでは治療を受けることができません。
出発前に保護者がサインし、医療機関にこのカルテを提出するだけでその機能を発揮します。
小児用
個人データ、子どもの既往歴、喘息などの持病、食物や薬物アレルギー、現在服用中の医薬品や子どもの治療に関する同意書などが記載されています。
両親が事前に記入しておけば、海外でも安心して医療機関を受診することができます。
医師・専務理事 篠塚 規