昨年卒業された生徒の成果物(一部抜粋)を紹介いたします。
Iさんは18歳の時に事故で頚椎を受傷して以来、車椅子の生活を送っています。
社会復帰訓練と職業開発校を経て就職をして、障害者支援や講師など多岐に
渡る経験をしてから大学に進学を決意、インターハイスクールに入学しました。
入学後1年で高校卒業程度認定試験に合格、今春から地元神奈川県の工科大学ロ
ボット開発専攻学科に進学します。
頸髄損傷者とは ~考察レポート~
~頸髄損傷という障害~
はじめに)
今から18年程前、私は当時18歳だった。高校を中退し、社会から外れた生活を送っていたが、何とか自分の道を見つけ、大工職人という目標に向かい始めて1年が経ったある日、その日は普段と変わりなく訪れた。
日曜日であったが職人に休日は関係なく仕事がある、新築アパート全5棟程の建前(上棟式)があった。気の張り詰めた一日が過ぎ、19時半頃家路に着いた。休む間もなく、当時付き合っていた彼女のところへ会いに行く為、身支度をし、食事も取らず、弟達が日テレの24時間テレビを見ているのを横目に、400ccのオートバイで家を出たのを覚えている。その日の記憶はここで途切れている。
次に目を覚ましたときには、市立総合病院の集中治療室であった。その日以来、二度と歩く事は無く、車椅子での生活を送っている。
私は交通事故が原因で、頸髄損傷という障害を負った。頸髄損傷とはいったいどのような障害か、私自身の実体験から以下に説明する。
さいごに)
今回のレポート作成に当たり「障害の受容」という言葉に引っかかり、何故気になったのか、その言葉の意味を考察してみた。
障害の受容とは何か、辞書で調べると「「受容」受け入れて、とりこむこと」とある。
就労支援等の講義の際によく質問を受ける事がある、「どのように障害を乗り越えてきたのか」「どのように気持ちの整理をつけたのか」等。いつも答えに詰まってしまう、乗り越えたと思っていないからである。このことから、自分は障害を受け入れていないのではないかと考える事がある。
私の場合、受傷直後、医師からの告知の前に、元の身体には戻れないというおおよその予想はついていた。特に心情の葛藤などは無く、訓練に没頭したのを覚えているが、今思えば心の葛藤を押さえ込むように、気丈に振舞い、強がっていたのかもしれない。現実の辛さを押し殺すかのように、訓練の成果で少しずつできる事が増えていく事へ喜びを感じ、その喜びから得たものを、将来の希望へと膨らませて、目標とし少しずつ達成してきた。
しかし、妻と二人の生活では気にならなかったことが、子どもが生まれた事で意識せざる終えなくなったことだ。身体を張って子供たちと接してあげる事ができないという事である、人の価値観にもよるが、私の場合このことは特に意識してしまう。健常者である弟や友人に、自分が出来ない分、高い高いや、子供とキャッチボール等、良くお願いをする。しかし遊んでいる姿を見ると、なぜそれが自分ではないのかと思ってしまう。もし健常者に戻れるなら・・・と考える事がある。
障害を持ったものが誰しも思う事だが、その考えが「障害の受容」ではないのではないか、受け入れていないのではないかと考える。
障害と共に生き、自立し、社会復帰をする事だけが「障害の受容」なのか、障害者という「新たな人種」に変わる事が「障害の受容」なのか、現在36年間の人生半分ずつを健常者、障害者で生きてきたが、まだ答えを出せずにいる。
一つだけ分かっている事は、事故当日、オートバイで会いに行った彼女が、今の妻だという事、私の周囲の人間は昔と変わらず接してくれているという事である。
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