9日(月)1945年の今日はさまざまな理由で日本の命運を決する重大な日であった。11時2分、人類史上2個目の原爆が長崎に落とされ,7万名余りの人命が広島に次いで失われた。美輪明宏が戦後、ヨイトマケの歌をはじめ反戦歌を歌うようになった原点である。
美輪は爆心地から2キロ地点で被爆した。8月2日の時点で新潟が第3目標内にも入っていないのは先に紹介したように天候ではなく、何らかの理由によって長崎に変更されたのである。佐世保は爆心地から50キロも離れている。狙いは住宅や人々である。
原爆投下の33分前、天皇は内大臣木戸幸一を呼び、鈴木首相に戦争終結のための会議を開くよう指示をせよと命じている。その際、およそ12時間前のソ連参戦を上げている。つまり昭和天皇は広島や長崎の原爆投下で戦争終結の決意をしたのではないということだ。
今更ソ連を弁護する気もその必要もないが、史実は正確にしておく必要がある。つまりソ連参戦については日本の政府関係者は知っていたのである。史実をねじ曲げたがる人々はことさらソ連が「日ソ中立条約を破ってソ満国境になだれ込んだ」ことを強調する。
1941年の日ソ中立条約は期限は46年4月であり、延長しないときは双方が1年前に通告する取り決めだった。ソ連は45年4月に不延長を通告してきた。しかも45年2月のヤルタ協定(秘密)によって、ドイツ降伏の3カ月後の対日参戦(9日0時)は決まっていた。
そのこととソ連が引き起こしたシベリアの悲劇はまた全く別の話で許し難い。さらに言えばソ連兵による満州での略奪、強姦等の不法の数々から日本人を守るべき任務にあった関東軍が女性や子ども、年寄りを守らずに、先に逃げた事実も許されない。
9日が重大なのは天皇の指示によって午前10時30分から宮中の防空壕で開かれた「最高戦争指導者会議」のポツダム宣言受諾を巡る議論である①皇室の存在を確認させる②日本軍の撤兵は自主的に行う③戦争責任者の処理は日本で行う④連合国は占領を行わない。
天皇の弟高松宮でさえ、「こんな虫のいい条件で連合国が受け入れるはずがない」と木戸に電話したほどだ。こうしたくだらない話し合いをしている最中に長崎に原爆が落とされたのである。4条件中最後に残ったのが①の皇室の安泰を守ることだけだった。
天皇の裁断によってポツダム宣言受諾が決定したのが10日午前2時30分だった。15日国民がそれを知らされるまでの間にも満州で朝鮮半島でまたは東南アジア各地で戦闘や逃亡が続き、多くの尊い命が失われていった事実を私たちは忘れてはならない。
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