マレーシア独立記念広場
25日(月)転勤になった大阪から息子家族がやってきた。お土産の宮崎イモ焼酎「御幣」という原酒をオンザロックで数杯飲み、したたかに酔った。日本にいるとこれがあるからかなわない。もっとも一人ではこれだけは飲めない。相手があればこその量である。
おまけに友人から村上の名酒「〆張り鶴」が届いた。しばらく楽しみは続く。先日の防衛省による辺野古沖の埋め立て申請のやり方は「文句は言わせないぞ」と言わんばかりの強圧的なやり方だ。そして平然と「理解は得られるものと思う」と記者会見で述べる。
原発立地や最終処分場の立地を決める際もドイツやフィンランドのように何十年もかけて資料を公開しながら説得を続け、最後は住民投票や国民投票にかけるという民主主義の手順を踏む気もない。中国を笑いものに等できない。最後は金と権力で押し切るやり方だ。
広場に翻る国旗
沖縄問題の諸悪の根源は52年4月28日に発効した講和条約と同時に沖縄の基地使用を全面的に認めた日米安保条約にある。この条約の破棄又は全面改訂なしに、屈辱的な沖縄問題は終わらない。先進国の中で未だにこんな片務的な形で基地を提供している国はない。
安倍など自民党保守派が教育の諸悪の根源が日教組であるかのようなイメージを振りまき、国民もそれに取り込まれてしまったかのように見える。ちょっと待って欲しい。戦後の文教政策を進めたのは文部省=自民党文教族であって日教組は反対してきただけである。
朝鮮戦争の足音が聞こえ始めた48年頃から始まった教育の反動化は教科書検定の復活、占領軍による命令の形(政令201号)で公務員からスト権を奪い、指導要領(試案だった)の改定の動き、レッドパージ、修身科復活の動きなど矢継ぎ早の政策転換が続いた。
新首相官邸
54年の政治的中立に関する教育2法案の提出、56年の教育委員会を公選制から任命制に変える地教行法改正案を警官を500人も国会に入れての可決。同年、教科書検定強化の始まりとなった教科書調査官の任命、57年「特設道徳」決定。教頭の職制化の決定など。
次々と政治的な問題を提起し、日教組が反対運動をせざるを得ない方向に追い込んだのは、まさに政治的中立を侵した文部省だった。58年に入ると、勤務評定(校長に一方的に評価権を与える)導入すると同時に、校長や教頭に管理職手当を支給する法案の上程可決。
日本はあの戦争になんの反省もせず、アメリカの言いなりに戦後の民主化路線を放棄してしまった。その典型が教育政策だったと言っても過言ではない。それを許してきた国民の責任を問い直さなければならない。原発に対する意識も又同じ道を辿ろうとしている。
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