解良家、敷地は当時のまま
3日(火)先月の28日、久しぶりに最新の大震災被害者数が新聞に載った。27日現在の警察庁まとめによれば、死者15886人、行方不明者2946人である。避難・転居者数は346987人。こちらは今月7日現在の復興庁の発表による。34万以上の人が故郷を追われたのだ。
以前、「思い出の教師たち」の最初に取り上げた井上慶隆先生が「良寛」という著書をお持ちなのを初めて知り、ネットで購入して読んだ。今まで吉野秀雄氏や水上勉氏の「良寛」は読んだが、良寛が江戸時代の被差別民である非人に心を寄せている話は出ていない。
先生の「良寛」に「非人八助への思い」という項で良寛が身分差別を批判し、人間平等の思想に立脚していた事実を解き明かしている。良寛には非人八助という漢詩があるという。本来平等であるはずの衆生にさまざまな差別が生じている現実を悲しむ内容である。
良寛愛用の硯
八助は江戸、隅田川の両国橋付近で水死したらしいが、それを良寛はなぜ知ったのか。一説には良寛は上州草津温泉で八助に会ったとか、人づてに聞いて漢詩に読み込んだということのようだ。良寛の和歌に「いかなるが苦しきものと問うならば、人を隔つる心と答えよ」良寛がいかに差別を憎んだかがうかがえる。
良寛が長岡藩の殿様からの士官の誘いを断った話といい、この和歌に見る徹底した平等思想といい、改めて良寛を新潟県民として誇りに思えた。先生は全国各地を旅した良寛が越後を終の棲家に選んだのは、間引きも差別も他藩に比べ少なかった越後の地を愛したからだと、様々な考証の末に結論付けた。
昨日2日、井上先生の著書を片手にもう一度国上や生地の出雲崎を訪ねる気になった。先ずは、良寛のパトロンで当時の国上(くがみ=久賀美)の庄屋クラスの知識人、解良家、阿部家、原田家を写真に収めた。この3家の末裔3人とも、国上中時代の教え子だった。
天領だった出雲崎港
家庭訪問の時は気づかなかったが改めてじっくり家屋敷を拝見すると、当時の雰囲気が伝わってくる佇まいであった。その後出雲崎に向かい、港で佐渡を眺めながらおにぎりを食べた。江戸幕府はここを佐渡金山からの荷揚げ港として天領とし、代官所を置いた。
良寛はこの出雲崎で代々名主を務めた山本家の長男に生まれた。山本家跡は今は良寛堂となっている。何年振りかで良寛記念館を訪れ、良寛愛用の忽や硯を見ることができた。記念館の裏にある山本家の墓地にお参りし。母をいたわる和歌の石碑も初めてみた。
17年ぶりにI中時代の同僚S先生を訪ね、なぜここに住むことになったわけをうかがったところ、「退職したら、良寛さんに近づきたくて」移住してきたとのこと。「毎日良寛さんの足跡を辿っていますが、はるかに遠い存在です」と。理科の教師で植物の大家であった先生が良寛に惹かれていた知らなかった。心洗われる一日だった。
海外赴任時に必要な予防接種や健康診断が可能な全国のクリニックを紹介しております。








