学生のころ読んだ雑誌か本か何かでイラン研究界の大御所の先生がこう書かれていたのを、なぜか覚えている。言葉のインパクトが強すぎて、どの方がおっしゃったのかは忘れてしまった。
一見すると逆説的なこの言葉、実は相当程度核心を突いた言葉だと思う。
まず、一生懸命自分の国の言葉を話そうとしている目の前の外国人に、日本人である私でも、「あなたの日本語下手やな」とは言わない。むしろ、何を言わんとしているのかをいつもより注意深く聞こうとするし、また「〇〇さんは日本語がうまいですね!」と、事実はどうであれそう言うだろう。
またイランのみなさまの場合、これに「ターロフ」が追加される。葉の上では相手に嫌な思いをさせないように美辞麗句を並べる、イラン文化の一つの装置である。例えばどこかの家に呼ばれて何かプレ円とを持って行ったとき、その家の主は「ショマー ホデトゥーン ゴル ハスティード;あなたこそ花なのに(=何でプレゼントなんて持ってきてくれたの!そんなにお手間を掛けなくとも、手ぶらで充分だったのに)」と、言う。外国人がペルシア語を少しでも喋った時にもこれがおこなわれ、例えば極端な例でいえば「サラーム!(こんにちわ)」と言っただけでも、「うわ!あなたはイラン人よりもペルシア語上手に話せるね」と言われることもある。
更に、「ペルシア語は世界でも屈指の難しい言葉である」と考えているイランのみなさまもある一定程度いると思われる。そのため外国人がその難しいペルシア語を少しでも話せるものならば、それは手放しでほめる対象になるのだ。
だから、「あなたのペルシア語、下手ですね」とイラン人に真顔で言われることは、それだけそのイラン人と距離が近づけたということにもなる。また、ペルシア語が上手になったことの証明にもなるのだ。要は、こちらが日本人であることをほとんど忘れて、思わず口にしてしまわないことには、この言葉は出てこないはずなのだ。私はこれまで、この言葉を言ってもらうべくペルシア語の練習に励んでいたが、やはりその壁は高い。ペルシア語うまいね~で終わってしまうことばかりだった。
しかし数か月前、日本に休暇で1か月ほど帰国してからイランに戻り、親しい知人と久しぶりにあった時、自分でもペルシア語がつっかえながらになってしまっていたことに驚きつつ話していたら、「ミズタニはペルシア語が下手になった」と、そこにいた複数の知人から言われてしまった。彼らは何の気なしに呟いたこの言葉を、私は聞き逃さなかった。勿論、「下手になった」であって、「下手ですね」ではない。絶対的に下手であるといわれている訳ではない。しかし発言者の心にはきっと、「ペルシア語が今よりもうまかったミズタニ」があり、それと比較して「下手になった」といっているのはおそらく間違いない。
2回前のブログで、31州を周ったことを紹介したが、それに匹敵するぐらい、私にとってはうれしい出来事だった。勿論日本に滞在する間もペルシア語に触れていなければいけないという戒めでもあり、今度は「ペルシア語下手ですね」と、真っ向から否定してもらうべく精進は続く。
【ひとことペルシア語176】garantine kardan(ギャランティーネ キャルダン)
*この記事は個人の体験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織の見解とは全く関係がありません。