これは、マージャが自信をもって言うことが出来るペルシア語の1つだった。ターレシュ系の彼女は、近くのマースーレ村に嫁いだ。当時は学校もなかったから、ターレシュ語とマースーレ語しか話せない。ペルシア語は聞いたら分かるらしい。それでも、見知らぬ外国人である私にお茶どんどんを進めてくれた。私が飲み終わるまでニコニコしていて、飲み終わると再び、"チャーイ ボホル"と言い終わる前に、薬缶を傾け始める。
もう、あれから10年の時が経過した。
この駐在中、マージャの面影を探しにマースーレを再訪したかったが、ついぞその機会を得ることなく、退避となってしまった。全州踏査を優先した結果、大切なものがこぼれ落ちてしまったようになってしまって大変悔しい。
広大なイランの土地には、特に西部や北西部を中心に峻嶮な山岳地帯も広がっている。そのような地域には、自分の家の屋根の上が、行き交う人の通り道になっているという村も存在する。私が知っているだけでも少なくとも3か所はそんな村がある。専門的に調査したわけではないが、それぞれの距離は遠く離れれ、また文化圏も異なることから、同じような自然環境に対峙した人間が知恵を絞った結果なのだろう、きっと。マースーレは、そのような村の1つだ。アッバースィー・キヤロスタミーの名作『友達の家はどこ』でロケ地にもなっている。マージャはイランでお世話になった方の親戚で、誘っていただいて彼女の家に遊びに行くことが出来た。
彼女の家はマースーレの一番上。色々な家の屋根を踏みしめた先にあった。マージャによれば(知人がペルシア語に通訳してくれた)、子供が落ちてけがをしたり死んでしまったりすることもあるとのこと。そりゃそうだ。手すりもないし、屋根は決して平らでもない。雪など降ろうものなら外出自粛を要請されなくても外出を自粛するだろう。マージャの家の屋根に上って(一番上なので、そこは通路ではなくマージャの家だ)村を眺めると、家々が建てられている斜面がいかに急峻なのかが手に取るようにわかる。思わず足がすくむ景色だ。おっかなびっくり下を覗いている私たち外国人を、マージャはニコニコと見守り続けてくれた。2回目に来た時は知人がおらず、ペルシア語しかできない私と、ペルシア語ができない弟とその友人だったが、全く問題なく意思疎通ができたのは今でも不思議に思っている。何となく伝わった雰囲気で物事が進む感覚は、今でも忘れられない。
そんなマージャが鬼籍に入ったと聞いたのが数年前、日本でイランと直接関係しない仕事をしていた時のこと。また駐在員としてイランに渡り、もう一回紅茶を一緒に啜りたいと密かに思っていたのに。
マージャのいたマースーレ。二度と訪れることのできない、イランの名所である。
【ひとことペルシア語181】dour dour zadan(ドール ドール ザダン)
*この記事は個人の体験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織の見解とは全く関係がありません。