30日(月)快晴。昨日が韓国併合条約発効100年の日だった。このシリーズはこれで閉じたい。今日菅野美穂主演の映画「虹を架ける王妃」という映画をDVDで見た。朝鮮王朝最後の皇太子李垠に嫁いだ梨本宮方子(まさこ)の生涯を描いた内容である。
最後の方で、日本の敗戦が確定的になった頃、韓国から李皇太子に拝閲を願った女子学生が「いつ韓国に戻られるのか。戻ってくださいと訴える場面」には涙が止まらなかった。李垠は11歳で日本留学を名目に日本の人質となった。学習院、陸軍士官学校で学ぶ。
伊藤博文を中心に韓国併合に向けて着々とことが運んでいた1907年韓国(当時は大韓帝国)皇帝高宗は万国平和会議が開催されていたオランダのハーグに3人の密使を送り、日本の脅迫と人権侵害を訴える。それがばれて伊藤は皇居に軍人を連れて乗り込み退位を迫る。その後急死。(毒殺説)
李垠の兄・純宗が皇位につき、李垠の日本行きがこの年に決まった。当時李垠が羽織袴で椅子に腰かけ、その横で伊藤博文が軍服姿で立っている韓国の人々には屈辱的な写真がある。(数年前まで日本の中学歴史教科書に掲載)その2年後に伊藤は安重根によって射殺されるわけだ。
1919年3月1日にいわゆる3.1独立運動が起き、全国に拡大。まさにその年に日本の皇族梨本宮方子を内鮮一体化のために李垠に嫁がせるという政略結婚が画策される、山県有朋の策略との説もある。1920年結婚が成立したが在日韓国留学生による暗殺未遂事件が起きる。これは戦後まで公開されず。
ところがこの二人は映画でも描かれている通り、相性がよく終生幸せな結婚生活を送ったようである。翌年長男に恵まれたが儀式のために渡った韓国で夭逝。(毒殺説あり)梨本宮家にも嫌がらせや脅迫が続いた。10年後1931年に第二子に恵まれた。
軍隊内には差別はないというのは嘘で李垠の最高位は中将である。中将まで上り詰めた朝鮮人はもう一人洪思翊がいる。彼は戦犯裁判の中で多くの日本人将官が責任逃れに終始した中で「全ての責任は私にある」と潔くフィリッピンで処刑された人物である。
大陸での戦線が激化する中、1934年、李垠はストレスから尾瀬行きを希望したらしい。たまたま新築なった長蔵小屋に宿泊。この時小屋は皇太子のために専用のトイレをつくったとものの本にあったので、10数年前に確認のために見にいったが、すでに壊された後だった。
敗戦後、すぐに帰国しようとしたが王政復古を恐れる李承晩の妨害で成らず、朴大統領の時代に実現したものの李はまもなく逝去。方子は韓国に帰化、夫の遺志を継いで障害児教育のために87歳の生涯を終わるまで人生捧げた。韓国で逝去、墓も李垠と共にある。心温まる話だった。
海外赴任時に必要な予防接種や健康診断が可能な全国のクリニックを紹介しております。