去る年の暮れ近くに、弟が亡くなりました。訳があって一人暮らしを余儀なくされていました。路上で発見されて病院に担ぎ込まれたのですが、内臓の疾患でそのまま急逝してしまいました。大勢の人々、特に高齢者の方々が一人暮らしをしています。私にも親戚の者がそうした生活を札幌でしています。時々電話で消息を確かめて激励しています。誰もが遅かれ早かれ成熟し、身体と精神の老化の時がやってきます。それに備えることが、「今ここで」生きることの意味といえます。時には二つのことがあるといわれます。それは、毎日の暦をめくるときに、「ああ、もう一年が経ったか」と感じる時間です。もう一つは、「今年は充実した」とか「いろいろな苦しいことが多かった」と感じる時です。「大切な時、決定的な瞬間」といったような質的な時、あるいは人生に奥行き感じさせる時です。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われます。殴りつけられ倒れたところに富める人、地位の高い人が通りますが、皆立ち去ります。そこに、人々から異邦人のように避けられていたサマリア人がたまたま通り憐れに思い、自分のろばに乗せ宿屋に連れて行って介抱します。立ち去るときに宿屋の主人にお金を渡し介護を依頼します。サマリア人は、「ああ良いことをした、気持がいいな、」と誇ったでしょうか。「元気になってくれればいいな、、」と案じたでしょうか。どうも後者のような気がするのです。 続きを読む