みみのこの学校の出来事が人種差別からきているかは分からない。
だけど、人種差別の問題は、特にブザンソンで生活している間、私達にとって大きな問題だった。
もちろんいつもいつもではない。
そして、そんなことするのは一握りだ。
でも、みみにもいっぱい悲しい嫌な思いをさせたと思う。
私も、この問題については沢山考えさせられた。
もちろん、この問題はどこにでもある。
日本にもある。
だけど、自分が、、自分の大切な子供がされる側になったのはやっぱり大きかった。
親の仕事の関係でここに住むことになった自分の子供がそういうことでからかわれたり、時には奇妙なものを見るような目で見られることは耐え難いことだった。
2人で日本に帰ればよかったのにと感じる人もいるかもしれない。
でも、私はできれば最後まで、、会社が日本への帰任を命じるまでいたいという気持ちも持っていた。
辛い思い出だけを持って、できれば帰りたくはなかった。
努力すれば、ここでの運命も開いていけるともどこかで信じていた。
私は、みみに“みみが世界で一番大切”と言い続けた。
みみは、もう色々な国の言葉を知っているスペシャルな子なんだとも言ったし、それに、この小さな街ブザンソンで行われる国際指揮者コンクールに1959年に1人でやって来て、優勝し、世界的に有名になった小澤征爾さんの話も度々した。そうやって勇気付けていた。