<マレーシア発見、再発見。快傑ハリマオも驚き桃の木どうする気>
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1回目:広島「原爆ドーム」「平和記念資料館」で涙流す。今回の一時帰国。
日本への一時帰国です。今回は成田から国内便で広島に飛びました。
47年前の学友が広島に住んでいることが分かったので、会いに行き
ます。しばらくその帰国の旅日記を徒然なるままに、書きま~す。
ワタクシは東北生まれ、新潟に住んだり東京で勉強したり苦学バイト
したり、福岡でも寮に2年住んでいたし、そこで長崎、福岡、広島、
大阪出身のなどの学友が出来た「同じ釜の飯、仲間」でした。ただ
その後、会ってないし亡くなった同期生もあるみたいですが、詳しい
消息も風の便りでしか分からない。
そういう中で数少ない広島の友に会いたくなった。47年と言っても、
学生の間、富士山に登ったり奥多摩のキャンプに行ったりしたので
実質37年ぶりの再会です。同期生でもこんなに会ってないと、顔も
様子も変わってるだろうな。・・・・特におなかの出っ張り具合?
広島市内の路面電車・・市内要所移動にはこれがかなり役に立った。
外国人も必ず訪れる原爆ドーム。・・の最初の入り口・・・・
当時の様子がそのまま再現、壁のススが物語る・・ここは被爆前は
「広島県物産陳列館、奨励館」1996年12月に歴史の証人として
核兵器の廃絶と世界の恒久的平和の大切さを訴え続ける人類共通の
平和記念碑として、世界遺産に登録されました。
原爆ドーム・・・・・・
道順の途中に、日本語と英語で説明あり・・・・・・・・
後で詳しくわかるけど、被爆時、この川には死体や火傷を負った
被爆者があまりに多数浮かび、水を求めて、後で黒い雨が降って
くる・・黒い放射能雨・・喉乾いて黒い雨を、、手のひらで、
飲む・・身体全部の被ばくの上に、更に完全に内臓被ばく、、、
折り鶴は、年々、入れ替えるそうだ。全国からやって来る修学旅行
生徒からいただくからだ。下の絵も、全部折り鶴で出来ている。
広島平和記念資料館に入る。原爆投下に関しては、日本の4か所の
各地が検討されていた。(・・以下、確認した上で写真撮影はOK)
人間の背の高さと「原子爆弾」の比較模型。長崎に投下された
原子爆弾は「ファット・マン」と呼ばれ、長さ3.2m、直径1.5m
重量は約5トンだったらしい。
これは「リトルボーイ」と呼ばれ、広島に落とされた原子爆弾で
長さ3m、直径70㎝だった、重量は4トン。
巨大なキノコ雲・・・・・・・
以下写真3枚は、広島の場合ですが、
川と橋を残して、、、被爆後、殆ど壊滅、虚無・消滅・全滅・・
被爆前・・
被爆後・・何も無い・・
熱線で地表温度が3,000~4,000度に達し、爆風は秒速440m、
そしてこの時、大量の放射線が放出された。なので街は一瞬にして
破壊され、多くの、ほんとに多くの人命が亡くなりました。
原子爆弾による障害は、命をとりとめた人にも、ケロイド症状が
出たり、白血病など数多くの人が亡くなり、苦しんでおられます。
館内の最後のコースの一角では20人くらい座れるコーナーがあり、
当時ありのままの貴重な映像VTRが流されていた。ここは撮影禁止
ここに座り20分くらい観ていたが、涙がボロボロ流れてきた。
汗と涙が目に入り、ひりひり痛くって真っ赤になってしまった。
他の写真の撮影は聞いたらOKとのことなので、世界認識のためにも
こうやってブログに書いてます。
被爆後、いたるところで人々は全身皮膚が焼けただれ、垂れ下がり
ながらフラフラと歩く。子供達は特に眼球が異常に飛び出てたという。
この場所は、最後のTVコーナーで数人の座席があり、オープンです。
原爆の閃光で、ハンドルの影がこのように、壁に映し出される
くらいだった・・
1945年撮影、これは着物の柄で黒や濃い色の部分は熱線の吸収率
が大きく皮膚に着物の模様が焼き付いたという証拠写真ですね。
一応、見学は終わりました。この歳になって資料館に入ったのは
初めてだったのでそれは衝撃的でした。フラッシュ無し写真許可も
世界の人々に核兵器廃絶を訴えたいからなのでしょうか。これでも
あまりに悲惨な画像は出してません。・・出せませんが。
一時帰国 1回目は広島の旅まずは原爆ドームとその資料館でした。続く。
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