気がつけば、1週間ポストしてませんでしたね!
あーー本当に忙しかった。
月曜日の早朝から香港に飛んで、水曜日の夜に帰国して、で木曜と金曜はまたまたフルスロットル。
で、やっぱりそんな週の週末は自分にとって最高のご褒美ですね。
残念だったのは、この土日、どういうわけかいつものバドのクラブの練習がなくって、とっても残念。週末にバドやらないって一体何ヶ月ぶりなんだ?
身体が鈍るのでやっぱり週末はバドがないと。。。。ま、しょうがないね。
てなことで、何もやることがない、のんびりした週末に気づいたこと。
今日のお題は「感受性」
よく、若い頃は感受性が豊かだとか言いますね。
がしかし、、、私はむしろ一定の年齢を重ねた方が感受性は豊かになるような気がしています。
先日も、ポストしたように、休日の朝、これ私の一番好きな時間なんですがね、愛犬と散歩するでしょ、そうすると鳥の声、かぜの音、流れていく雲、日差し、それから緑、そういうものが目に入り、耳に入るのだけど、いつも季節が動いていることをすごく感じるのです。
若い頃はこういうことがなかった。
毎週、何らかの変化があって、少し木々の色が変わったとか、金木犀の香りがしたとか、あるいは陽の光が弱くなったとか。
そういう変化を敏感に感じるし、それを愛でることができるようになった。
これには2つあると思ってて、一つは年齢です。
本当に色んなことを経験して、そういう日常の何気ない一コマというものがどれだけ大切なことががわかり始めてきた。
「普通」ということがいかにありがたいことかと。
あとは、自分の年齢を季節に重ね合わせると恐らくは秋なんですよね。もうすぐ54歳。
そうすると、春、夏を超えて3つ目の季節を経験する中で、芽吹いだものが満開になり、そして葉がそれに次ぎ、次第に落ち葉となるということを目の当たりにする。
そうすると、「今」というもののありがたさというものが何となく若い頃とは違う感覚で捉えられるようになりつつあるのかもしれません。
こういうこというと、なんか隠居のジジイみたいに聞こえるけど、普段はもう完全フルスロットルで仕事しまくっているのだけど、やっぱり色々と超えてきて、そういう感受性が身につきつつあるのかと思います。
なので、時折蕎麦屋とかでいい年齢の方が、それも一人で昼間から日本酒を飲みつつ軽く板わさなんか食べてる姿なんかを見ると、とても素敵だと感じます。別にスマホをいじるわけでもなく、時折新聞読んだり、ぼーっと外を見たりしながら、お気に入りの酒と季節のつまみで休日の昼下がりを過ごす。
こういう技って、若造には無理ですね。(ごめんあそばせ!)
一定の年齢を経たオヤジとか、おばさんにしか無理なんだよな。特に一人酒なんかは。
そういう時って、本当に蕎麦屋の窓の外に見える景色一つも肴になるわけなので、これをもって感受性豊かと言わずして何なんだと。
あと、自分の場合は2年間のロンドン暮らしが影響してしてます。
今、自分のPCのデスクトップは以前暮らしていたロンドンのフラットに戻る小道の写真なんだけど、もうあふれんばかりの緑なんですね。
なんども書いてるけど、イギリスの一人あたり公園面積は日本の10倍以上。
どれだけ地価が上がってもグリーンだけは絶対に手放さない。それがイギリス人。
そういう環境で暮らしていると、自然とのふれあいというか、緑や広い空や、陽の光、雲や雨なんかとの関係性が近くなるような気がします。
よくあったのが、フラットに帰る小道が木々であるれていたんだけど、酔っ払って帰る夜などは、それらの木々が「生きている」ことがなんか如実に感じられる気がしたのです。
単なる酔っ払いかもしれないけど、これだけは日本では経験してことがない事実です。
ま、そんなこんなあるわけですが、私は50歳を超えて、どうもオヤジになるというのは案外素敵なことだと思うことしばしばです。
時に、最近は日曜のランチはほぼ決まって銀座のとある天麩羅屋のカウンターにてランチをいただいています。
こういうのも若者には無理でしょ。
世のオヤジ様がた、人生を謳歌しましょうね。
オヤジの特権も行使できるし、ふとした身の回りのささやかなことにも喜びを感じたりできる素晴らしい年齢だと思います。
我々こそ、「感受性豊か」と言って欲しいもんですね。
てなことで、これぞ徒然日記でした。
おわり。
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