逆移住編:マレーシアから日本へ。快傑ハリマオの発見・再発見、驚き桃の木どうする気。
日本で経験「銅山の坑道」。知人のインド人も貢献したいと言った「植樹」の後、坑道をトロッコで行く
ある情報から「足尾での『植樹』体験」をする事になった・・・
と言うより、自分でいろんな出来る範囲でのボランティア探しだ。
無理しない程度の情報リストを見ていくうちに得た事で、植樹は
初めての経験だ。後での話だけど、知り合ったインド人に話したら
も「ソレ、私達もやってみたい」と言ってくれた
今まで年齢問わず、いろんな人、団体、会社、個人、幼稚園の園児
まで植樹を行っているらしい。国や県、NPO法人もバックアップ
してます。
NPO法人による17回目で、今回は61人の参加数で、どんぐりの苗木を
61本植えたのです。参加費は大人で1人1500円。中学生以下は1000円。
(苗木代、黒土代、保険料、飲み物代含む)
いって
これは最初、説明の前の様子、この後、席を詰めていって全員で
61名になる。
左の写真は、江戸時代からの足尾銅山で山が煙害などで破壊され、
草木の生えない裸になってしまった様子・・
右のこの写真は、その後、緑を植える会等によって、破壊された
土を取り戻し、緑の回復中の様子。まだまだ緑が必要だと言うお話
植樹のやり方の説明がある。 栄養ある黒土が重要ポイントらしい
一人一人が、自分のバケツと水と、黒土とスコップを持ってゆく
スコップじゃなくて、、ガーデンピッケル=土堀り、土起こし用。
まだまだ、苗木は、皆の協力を待っている・・・スペースがある。
このように、今回の、61人61本の「生きた緑」の植樹の光景・・
記念プレートも付けられるというので、作ってきて、セットした。
・・・表の文章と絵は、恥ずかしいので見せられない・・・
プラスチック内は水が入らないように防水した。
日付を間違って書いてしまった。第3の人生の開始日は「2022年
10月15日」じゃなく、本帰国した到着の日付とすれば、去年の12月
3日になる。成田に降り立った日、、、「日本に逆移住」まだ1年は
経っていなかったなぁ
植樹の後、皆「草むしり」をする。雑草が栄養を取ってしまうから
江戸時代以降も、昭和まで銅山発掘が続き、煙害から土が緑を取り
戻すには100年かかるそうだ・・・
足尾の町を歩けば「銅山のまち」として栄えた頃の面影が歴史を
感じさせる。貴重な史跡、重要文化財、などが今でも残っている。
勿論「廃墟」となったが、歴史的文化財として保存されている。
そしてここからは、観光にもなっているが、「足尾銅山」の実際の
坑道をトロッコで行く。・・大人830円だった・・
トロッコを降りて、「坑道」の中を「行動」・・・・・開始!
歩き進むにつれて、「作業人夫」達の様子が再現、江戸時代から、
明治、大正時代、昭和時代へと続く
明治大正時代・・・働く人たちの姿の再現・・・
昭和時代へと・・・
坑道内は、ひんやりとして、天井から水がポタポタ、落ちてくる、
ここからは「鋳銭座」と呼ばれ、時代劇の「銭形平次」で知るように
貨幣は「寛永通宝」だった。足尾で作られた貨幣にはすべて裏に「足」
の文字が刻まれていたという。
お土産売り場では、銅で作ったというスポンジタワシや、網も、、
採掘で出た、いろんな「鉱石」も売り物になっている。
煙害でやられた山肌は、茶色で草木は生えないし、枯れてしまう。
なので、最初書いたように、後世の人手で、植樹をしないと緑は
取り戻せないのだ。・・・明治時代でも、銅の生産の日本の40%
以上はここが、一番だったらしい。
・・人のあまり来ない、足尾駅にもこういうPOPが貼られていた。
約400年にわたって作った坑道の長さ、総延長で1234㎞あるそうだ。
その長さは東京~博多までらしい。出口にその模型図があったけど
見ると、10階建てのビルのようで、まるで、アリの巣の様に、入り
組んで、なん段階にもわたる坑道だった。長い歴史の中で、崩落、
生き埋め、不慮の事故も沢山あったのでは?と思っちゃった。
緑が破壊された山肌・・緑に変えようと、その小さな行動だった
けど、小さな力がやがては大きく成長することを願っての今回の
植樹でした。またこういう機会があれば、ぜひ参加したいと思って
いる今日この頃です。
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