新しい言葉を覚えることは、単に文法や単語を覚えるだけにとどまらない。その言葉がもともと話されているコミュニティーの文化や習慣、暗黙のルールなどを身につけて初めて、その言葉を覚えたといえるのではないか。そんな、言葉と密接に関係があって最も外からとっつきにくいものの一つが笑いだとおもう。冒頭の小噺は、私が留学していたころに友人のアフガン人から聞いたギャグだが、何度聞いてもそのツボが全く理解できなかった。友人は話をするたびに噴き出すのをこらえながら説明してくれるのだが。
その当時街に出回っていたNokiaのSNSを通じて送られる、乾いた日常に笑いをもたらすジョークやギャグ。友人たちは私がペルシア語を勉強しているのを知っているため、そういったもので彼らが"これだ!"と思ったものを私のSNSに送ってくれたり、一緒にいれば自分の携帯をみせながら、そのジョークを説明してくれたりした。
しかしそのほとんどが、笑えない。説明する方は、説明の途中で笑いが堪えられなくなって、途中で説明が出来なくなってしまうぐらいなのに。大抵、友人はひとしきりそのギャグで笑い終えた後、もう一度ゆっくりと説明してくれるが、それでも笑いどころがよく分からない。向こうはなぜこれが理解できないのかが分からない、といった趣で、また丁寧に説明してくれる。更にまた、こちらが分からない顔をしていると、こちらのペルシア語の能力が足りないためにこの素敵なギャグができないのだろうと考えて、そのギャグに出てくる単語を簡単な単語に置き換えてくれる。
でも、笑えない。笑いを理解するためには、言語を覚える以上にやることが沢山あるのだ。例えば、イランは多民族国家で、お互いを殺し合うほど恨みながら生活しているわけではなく、まぁお互いうまくやっている。しかし「〇〇系の人は××だ」という固定化されたイメージを互いに持っており、それが基になって様々なギャグが作られる。ここで、「〇〇系の人は××だ」というイメージを私が持っていなければ、ギャグは理解できない。また仮にたまたま「〇〇系の人は××だ」というイメージを持っていたとしても、「本当にそうなの?」と考えてしまうから、ギャグの面白さに気づくのが遅れてしまう。
冒頭で紹介した小噺も、もしかしたらペルシア語の音の連なりにその面白さがあるのかもしれないし、狩人と象が何かのモティーフになっているのかもしれない。それをいちいち説明してもらわないと理解につながらいけど、説明されたところでそれが面白いという感覚につながるかどうかはまた別問題だ。
話は少し変わるが、日本とイランがビザなしで往来できた30年ほど前に日本で暮らしたことがある人の何人かから、日本のテレビ番組は面白い、という話を聞いたことがある。確かにイランの国営放送のテレビ番組は規制が厳しく、体制的に「お利口さん」な番組しか放送しない。例えば彼の国でも視聴率が80%を越えたともいわれる「おしん」ですら、道徳的観点からカットされて放送されたと聞く。そんな国からやってきた彼らにとって、今よりも自主規制が少ないテレビ番組は面白かったのかもしれない。でもそのことを話してくれた人の中には、「お笑い番組がおもしろくて日本語を覚えた」とか、「お笑い番組はすごく勉強になるね、見ていても飽きないし」ということを言う人がいる。
もうお分かりだろうか、実はこういった人たち、志村けんさんの番組を見ていたのだ。中には「日本のテレビ番組は堕落した。志村の時代が一番よかった」とまで言っていたのを聞いたことがある。もちろん個人差があるから、全員が全員志村けんさんの番組を見ていたわけではないだろうが、すくなくともこうして、イランにも彼の番組で日本語を覚えたという人は存在する。私もイラン国営放送でラジオやテレビを視聴するが、20年後に「この番組がよかった」と言えるほど、入れ込んだ番組はない。
異文化の笑いを理解することの難しさを知っている私は、この記事を書くにあたって彼の番組(コント)を久しぶりに見直してみた。すると、彼のコントの多くはどこにでもあるようなやり取りをつないだものが多いということが分かった。つまり、特定の文化的背景の理解を踏まえずとも、その笑いに共感できるものだと思えるのだ。スタッフやスタジオの観覧車の笑いが入っているのも、その笑いの理解に貢献しているのかもしれない。この記事も最近導入したタブレットを隣においてコントを見ながら書いていたら、笑いが止まらなくなって書き進めるのが遅くなってしまった。
こう考えると、ビザなし交流が復活した遠い将来のある日、日本にやってくるであろうイランのみなさまは、何を見て日本語を覚えるのだろうか。
合掌。
【ひとことペルシア語179】mikhare??(ミハレ?)
*この記事は個人の体験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織の見解とは全く関係がありません。