それは突然の事だった
近くに住んでいる親戚のその誰も。。。間に合わなかった
小さかったおばあちゃんは
ひっそりと息を引き取った
大正7年生まれ95歳だった
小さかったおばあちゃん
「今年の夏は越せんかもしれんね。。。」と聞いていた
(私、来週から日本に帰るんやったんよ)
ここ2,3年の間に何度も肺炎を起こし
度に病院へ運ばれ「奇跡の生還」でいつも帰ってきてくれてた
私も一度、台湾からそのまま病院へ駆けつけたことがある
「覚悟してください」
何度も言われてきた「言葉」だった
おばあちゃんの自宅から近いホームに入っていたので
いつも誰かが面会に行っていた
ここ2年くらいは、だんだん痴呆が進んでいて
「私」の事も「誰」なのか、判らなくなっていた
かろうじて「息子」である私の父と、嫁である「母」のことは判っていたようだ
そのおばあちゃんが亡くなった
7月11日午後7時29分
ホームから私の実家に連絡があったのが午後6時50分
全員そのままの格好で慌てて車を飛ばした
その「私」は11日~1泊2日の旅行に出かけていた
母にはそのことを「なぜか」伝えてあった
12日
午後2時30分自宅へ帰ってくる
電話を見ると「着信」記録が残っていた
「実家」からだった
時間的に少し嫌な感じがした
すぐにかけ直すが、誰も出ない
「おかしいな」買い物かなと思った
6時頃にもう一度かけてみる
誰も出ない
母が庭へ出ていたり
父がお手洗いに行ってたりすると出ないことも多いので
「また、後でかけてみよう」と思った
7時頃かけてみたけど誰も出ない
確実に「何か」あったんだなって思った
すぐに母の携帯へかければ良かったと
この後にすごく後悔をした
すぐに主人が帰ってきたので
食事とか旅行の話とかで
母へ連絡するのが遅くなったが
9時半ごろ母の携帯をコールする
出た!後ろが騒がしい
「おばあちゃんが昨日亡くなったんよ」
お通夜のあとみんな葬儀会場に泊まっているそうだ
やはり、そうだった
私が旅行に行っている事を気遣った母が携帯へ電話をしなかった
そして「海外」で離れていると言う理由で
主人にも連絡は入れなかった
何よりも「突然」すぎて
バタバタし過ぎて「連絡」すらも「後手後手」になってしまったようだった
子供達や兄弟、孫やひ孫みんな揃って明日のお葬式に出るって言うのに
私はいま「台湾」に居る
もどかしさで胸がいっぱいになった
私達兄弟は私が台湾、弟ジャカルタ、末の弟は出れるのに
すぐには帰れない
一日早く聞いていたら、帰れた、だろうか
こんな時に「海外赴任」ってすごく困ると「ひしひし」と感じた
私がいま台湾で使用している携帯電話は「会社貸与品」で
メールなんておろか、ネット環境なんてない
必要な人はみんな「自分」で携帯を契約しているか日本からの「個人携帯」を使っている
私の「個人携帯」は。。。と言うと
海外非対応の古い携帯で「買い替え」もしていない
携帯と言う便利な「ツール」が使えていない自分に腹が立った
電話を置いたのは夜の9時30分少し過ぎだった
日本は10時30分過ぎ
こんな時間から「電報」も打てない
最後にお別れの「言葉」も贈ってあげられないのか
葬儀は翌日11時から
泣きながら探しに探して
なかなか「すぐの配達」が見つけられない
時間がない
2時間
こんな遅い時間に頼んでも
お悔やみ電報をすぐに配達してくれるところと
お花に至っては夜中の12時近く(日本時間1時頃)
やっとの思いで「贈ってくれる」ところを見つけた
私と弟の名前で電報とお花を贈った
便利な世の中になった
でも自分の「携帯」を駆使しての連絡は・・・出来なかった
母から電話があり
「あんたの贈ってくれたお花めちゃくちゃ綺麗やったよ
電報も読み上げれらるとみんなまた泣いた」
小さかったおばあちゃんは、もっと小さくなっていたそうだ
95年、頑張ったなって思う
昔、おばあちゃんに
「ka-coちゃん、おばあちゃんね
こげん「長生き」するつもりはなかったとよ
長生きするとみんなに「迷惑」ばかけるやろう
でもね「神様」は意地悪でくさ
おばあちゃんば迎えにきてくれんとよ」
旅行に行く日の朝「歯の抜ける」夢を本当に久しぶりに見たと、主人に言った
私が「歯の抜ける夢」を見ると
誰かが亡くなる
主人に「そう」言うと「まさか」と笑っていた
電報やお花を送ってくれそうなところを必死に探している私の隣りで
「ka-coの夢ってすごいね」と言っていた
おばあちゃん最後のお別れが出来なくて・・・ごめんね
でも、九州に帰るけん「会いに」行きます
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