そうそう、木村拓也も広島時代に、憎たらしいと思いながらも大好きでした。
もうこちらで10年以上いなのでほとんど忘れていますが、いっぱいいい選手を輩出していますよね。
さようなら、タクヤ 原監督、弔辞全文
弔辞。
木村拓也くん、きょうは君が一緒に戦ってきたジャイアンツのみんなが お別れに来ています。若かった時に活躍した、カープの皆さんも集まっています。君にプロ野球の門戸を開いてくれたファイターズの大先輩もお見えです。野球 人としての生き方に共感した人たちが、君のために集まってくれました。
君がジャイアンツに入ったのは、私が監督に復帰した2006年6 月でした。そのころは主力に故障者が出たこともあって、チームが弱体化し私はかじ取りに苦しんでいました。元気のいい野球少年がそのままプロ野球選手に なったような君は、広島からのトレードが発表されると、すぐにホークスとの交流戦が行われるヤフードームに駆けつけ、練習してから入団会見を行ったのでし た。晴れのお披露目でビジター用のユニホームを着るなんて、君の心意気が表れていました。
翌日にはもう代打で出場し、三塁、外野の守備 に就きましたね。君はすべてのことに対して臆することなく、勇気を持って戦う姿勢を持っていました。だから、二塁のレギュラーポジションにぽっかりと穴が 空いたときもすぐに君が救ってくれました。常に全力を心掛ける気持ちが過剰になり、思わぬエラーをすることもありました。でも君は自分のせいで失敗すると それを自分の打撃で取り戻す意地も見せました。2008年9月15日の横浜戦でも2回に君の送球ミスから先制点を奪われると、君は3回にバックスクリーン に同点本塁打を放ち、結局2安打3打点の活躍を見せました。こうした君の気迫が、一時は13ゲーム差を離された阪神を逆転していくエネルギーになりまし た。
君はこのシーズン、36歳にして自己最高の打率、・293をマークし、そして、昨年、君はジャイアンツの財産とも言えるプレーを見 せてくれました。9月4日のヤクルト戦、延長11回の攻撃で加藤が頭部死球を受け、キャッチャーが誰もいなくなるという事態が起きました。私が「タクはど うした」と聞くとコーチから「ブルペンに行きました。練習しています」という返事が返ってきたのです。私はとてもうれしかった。君は一番左の写真にある通 り、12回の守りで豊田、藤田、野間口という3人の投手をリードし、無失点に切り抜けたのです。私はベンチから飛び出して君を抱きしめました。誰に指示さ れなくてもチームの中での役割を考えて、練習し、10年ぶりのキャッチャーをこなした君に、ジャイアンツは本当にいいチームになったと感じたものです。
君が見せた姿勢こそ強いチームをつくるために、必要不可欠なものでした。君は投手以外のどのポジションも守れるオールラウンダーとしても、しかもスイッチ ヒッターでした。19年の選手生活で積み上げた1523試合出場、1049安打という数字の陰で、どれだけの汗と涙を流したのだろう。でも私は君の真っす ぐな明るさが天啓のごとく、いつも可能性を君に見いださせ、周囲から惜しまぬ協力を引き出したのだと思います。
私はスポーツマンには素 直さ、朗らかさ、謙虚さが大切だと思っています。君はそれを持ち合わせていました。君が現役を引退した時、私はコーチとしてそれを若い選手に伝えてほしい と思いました。あの時、私と君は「拓也、日本一、いや世界一のノッカーになろうな」と誓い合ったな。それはもうかなわない。でも君の精神は私たちの心のな かで間違いなく脈打っています。もちろん君が愛する子供さんたちのなかにも同じです。君はこれからも私たちとともにいます。
東京ドームの君のロッカーにあった「84 T・KIMURA」のネームプレートは今、監督室の私のそばにあります。一緒に戦うぞ、拓也。ありがとう、さようなら、拓也。
平成22年4月24日
読売巨人軍監督
原 辰徳