※この物語は、80%の事実と20%の創作で構成しています。
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エピローグ:愛のしごと。
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AM8:00。
「じゃ、行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい!」
玄関で彼の後ろ姿を見送り、
ピンクのスリッパをパタパタさせてリビングに戻る。
カーテンを開けると、窓にまだ控えめな水色がうっすらと映り、
朝の光が優しく射しこんでくる。
少し寒いかな、と考えるも、
朝の気配を感じたくて自然と手が窓の鍵に伸びていく。
カラッと左にひと押しすると、
冬の新鮮な空気がすっと私の髪をかすめ、部屋の中に流れてきた。
カーディガンを羽織り、肩で大きく深呼吸をすると、
物干し竿の向こうに広がる青空が見えた。
その空をぼーっと見上げていると、
私の後ろで、お天気お姉さんのテレビ中継が始まった。
関東地方、晴天。
最高気温16℃、風もなく、穏やかな一日。
これなら午前中に洗濯ものが乾いちゃいそうだ。
いつの間にか音が鳴りやんだ洗濯機に気付き、
複雑に絡まった衣類たちを取り出して一つ二つ落としながらも窓際に運び出す。
二人前だけど、毎日洗ってるから大した量じゃない。
その分、気付く。
あっ、この靴下、前縫ったのにもう穴空いてる!
ワイシャツの襟ぐりってどうやったら真っ白になるのかなぁ?
それを着ている彼の姿と表情を思い浮かべながら、
一枚一枚丁寧にハンガーに吊るしていくのだ。
そして時々手を止めてふと思う。
私は今、愛する人のために働いている。
それが心から、たまらなく嬉しかった。
ふと、ただがむしゃらにデスクにかじりついて仕事に没頭していた頃の自分の姿が、頭の中にぼんやり浮かんだ。
まさか、キャリアウーマン街道まっしぐらだった女が、
あっさり仕事を捨てて家庭に入るなんて、誰が想像できただろうか。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
私が仕事を辞めると宣言した時、皆きょとんとした。
同じ部署の皆をはじめ、
私を育てようと色々アドバイスをくれた上司、
割と素の私を知っている大学時代の友人でさえ度肝を抜かれた様子で、
なんで?なんで?と皆して同じセリフを繰り返すばかり。
皆にとって私の姿は、
「出世コースをひた走るキャリアウーマン」の典型例に映っていたのだ。
そりゃあ、誰がどう見てもそう思うだろう。
新卒入社二年目で海外事業の新規開発チームに自ら飛び込み、
ビジネス立ち上げのため上海へ出向。
将来は、中国の事業責任者としてのし上がりたい、そんな思いが胸にあった。
みんなが、私の未来に期待していた。
そんな中。
たった一年前に出会った男性が、
私の天職は家庭の中にあるということを、こっそり見抜いていた。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
いつの間にか彼のワイシャツを強く握りしめていたことに気付き、
しわくちゃにならないように慌ててパン!と引きのばす。
ちょっと見上げると、物干しざおに吊るした洗濯物が、
太陽の暖かい光を受けてきらきらと輝いている。
暖かくなってきたな。
午後は土手をお散歩してみよう。
「よし!」
ピッチを上げて洗濯を済ませ、午後の計画を立てることにした。
…
PM13:00。
電気よし、火の元よし、戸締りよし!
家で簡単なランチを済まし、
お気に入りの水筒にジャスミン茶を入れて外に出る。
日射しは午前より少し和らいで、午後のゆったりな雰囲気を演出していた。
家から鶴見川まで、歩いて10分。
ちょっと散歩するにはちょうど良い距離だ。
土手までの道のりで、
垣根からひょっこり顔を出した茶トラの野良猫と目が合った。
猫はしばらくこちらをじっと見つめてから、
視線をそらして道をさっと横切った。
気ままに活動している動物を見ると、自然と顔がほころぶものだ。
その後も、どこかに猫が隠れていないか、ちらちら探しながら歩いた。
公園を通過し、狭い石段を登る。
最後の一段でフワッと風が吹いたあと、鶴見川が下に見えた。
川は今日も相変わらずさらさらと流れている。
枯れたススキが一斉になびいてざざー、ざざーっと音楽を奏でる。
障害物がなく、街中よりも日光がよく当たる。
石段では鳩たちが気持ちよさそうに日向ぼっこしている。
昼間の日光って、冬なのにこんなに暖かいものなんだ。
当たり前のような事だけど、この感覚を随分長い間忘れていたような気がした。
何だかとても気持ちがいい。
土手のアスファルトを、新横浜方面に向かって一時間ほど歩くことにした。
周囲を見てみると、しっかりスポーツジャージを着たおじいちゃんおばあちゃんが、
元気はつらつと挨拶を交わしながらジョギングをしている。
子ども連れのお母さんも多い。
この街には、こんなにたくさん、人がいたんだ。
ここに引っ越して三年になるのに、私はこの街のことをほとんど知らない。
仕事を辞めて、それに気付いた。
しばらく歩いたので、
芝生に腰掛けて一休みすることにした。
私の近くで、ボールを持った2歳くらいの男の子が、無邪気に遊んでいる。
その子の傍でお母さんは、実に穏やかな笑顔でその様子を見守っていた。
…なんて、いい顔しているの。
つい一か月前まで、
常に何かに追い立てられるような表情をしていた私にとって、
このような笑顔は、未知の世界のものだった。
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「…もったいない」
「あなたまで、私が仕事を辞めるのはもったいないなんて言うの?」
「…もったいないよ」
「じゃあ、私はずっと働いて生きていって、気付いたら付いてこられる人はいなくて、ずっと一人で…ずっと一人で生きていかなきゃいけないの…?」
こんな会話は、彼に限らず、今までに何度かあった。
私が強く、男以上に男らしいため、
男性が気負いして、ついていけなくなってしまうのだ。
男性と別れる度私は無駄に強くなり、
要りもしないのに、一人で生きていく能力がついてしまう。
そんな無限ループから、もう抜け出せないんじゃないかと、絶望しかけた。
彼も結局、私の事をわかってくれないの…?
「愛は、とても良いお母さんになって、明るい家庭が作れる才能があるのに」
え?
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
ボールを遠くまで転がしてしまった坊やは、危なっかしく走ってみたものの、
ボールに追いつくより先にお母さんに抱きあげられてしまった。
母親は、いつでもわが子を見ていて、
何かあった時、いつでも手を差し伸べられる場所にいる。
そう、いつでも。
坊やは抱きかかえられて気持ちよくなったのか、
そのままうとうとと眠ってしまった。
その様子を見ていたら、私まで眠くなってきてしまった。
おっといけない。
少し風が出てきたし、コーヒーでも飲みにいこう!
…
PM15:00。
川沿いをてくてく歩きながら、駅前のカフェへ向かう。
土手から商店街につながる小道に入ると、
長いネギが飛び出た買い物袋を前かごに入れて走るおばさんとすれ違った。
材料からして、今夜はきっと鍋をやるんだろう。
その後も、幼稚園帰りの子どもと手をつないで八百屋に入るお姉さん、
片手に大きな紙袋をぶらさげてベビーカーを操る凄腕ママに出会い、
それぞれの家庭を勝手に想像しながら、道を進んでいった。
主婦ってのも、ある種の立派なお仕事なんだ。
みんな熟練の顔つきで街を歩いていて、
昼間の商店街の世界では、私なんてまだまだ一年生だな、と改めて感じた。
そんなことを考えているうちに、お馴染みのカフェに到着。
お馴染みといっても、
今までは専ら飲み会帰りの酔い覚ましに立ち寄っていただけで、
日中にコーヒーを飲む目的で来店するのは初めてだった。
店内は落ち着いた雰囲気で、店員さんもゆったりと構えている。
「ブレンドコーヒー、Mサイズで。」
商店街の様子が見えるように窓際の禁煙席に座り、
上着を椅子にかけて一息つく。
ポケットに入った万歩計を見ると、すでに10,000歩を記録している。
今日は、よく歩いたなぁ。
自分の小さな功績をひそかに称えながら、店内を目だけでぐるりと見回す。
ん?
ふと、変な形に肩を固めた背広姿が目に止まった。
彼の目の前には、軽量小型のLet's note。
画面に見入るように首を前に突き出し、
手先だけが器用に動いて、キーボードをカタカタと叩いている。
テーブルには何かのグラフが入った書類が無造作に置かれ、
足元に重量感のあるブラックのビジネスバッグ。
時間帯と身なりから考えて、外回りの営業マンだろうことは容易に想像できた。
液晶の向こうの世界に夢中な営業マンのテーブルで、
全く口をつけていなそうなコーヒーがすっかり湯気を出しきって、
冷たい置物のようになっていた。
「愛、コーヒーが冷めちゃうよ。」
一瞬、目の前の営業マンと自分の姿が重なってはっとした。
…あの頃わたしは、
いつでもどこでも、彼とコーヒーを飲んでいる時でさえ、
Let's noteの中に仕事を抱えて、液晶画面に視線を注いでいた。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
「愛はなぜ、そんなに仕事をするの?もったいないよ…」
彼は、力強く働きまわる私の奥底で小さくおびえている私を、
最初から何も言わず見守っていたのだ。
今まで出会った誰もが、「愛は仕事女だ」と思っていた。
そんな中にいる内に、私もいつの間にか、
自分がそうあることが正しいのだと思い込んでしまった。
そう、いつの間にか、知らないうちに…
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
ブー、ブー、ブー
営業マンはテーブルから落ちそうになる携帯をタイミングよく手に取り、
まるでここがオフィスであるかのようなかしこまった口調で電話を取った。
ここは、コーヒーを飲むところだよ。
さりげなく自分にも言い聞かせるようにし、
カップを傾けると、猫舌の私には少し熱いくらいのコーヒーが口に入った。
その温かさがじんわりと、
昼間の散歩で少し疲労した身体に伝わった。
お酒の後に飲むごまかしのブラックとは、味わいが全く違う。
カフェでコーヒーを飲むということが、
こんなにも心を落ち着かせるなんて。
―しばらく無言でコーヒーを飲む―
・・・
おっと、ちょっと長居しすぎちゃった。
そろそろ夕食の買い物をしないとジョギングできなくなっちゃう。
「ごちそうさまー!」
忙しくゴミを分別し、お店を出た。
…
PM17:00。
アディダスのレディースジャージに着替え、
同じくアディダスのスポーツシューズの紐をきゅっと結ぶ。
夕方はちょっと冷え込むから、ニット帽も忘れずに。
万歩計と鍵だけをポケットに入れ、
玄関のドアを開けて軽快に走り出た。
今日は、一時間っ!
夕刻に一時間ほど鶴見川沿いを軽く走って汗を流すのが、
新しい生活の新しい習慣になった。
始めたばかりの頃は、筋肉痛で階段が降りられないほどだったが、
元運動部の馬力がどこかに残っていたようで、
一週間ほど続けたら気持ちよく走れるようになっていた。
土手までの小道は軽く足ならし程度に走り、
川が見えたらスピードを上げる。
土手にはベテランランナーがたくさんいるから、ちんたら走るのは恥ずかしいのだ。
この時間帯は、私より年齢層が高い、40~50代くらいのランナーが多い。
定時あがりのサラリーマンが、荷物を置いてすぐに走りに出るのだろう。
ランナーには鬱病患者がいないとどこかで聞いたことがあるが、
みんな実に清々しい顔つきで走っている。
自分では見えないけれど、
私もきっと、同じような顔つきで走っているのだろう。
30分ほど走ると、いつの間にか他のランナーの姿が見えなくなり、
太陽が沈んで辺りが暗くなっていた。
それでも呼吸のリズムは崩れることがなく、
タン、タン、タン、と軽くアスファルトを蹴って走り続ける。
万年肩凝り性だった私の身体は、今考えてみると明らかに不自然だった。
走り方を忘れ、筋肉の使い方を忘れ、
挙句の果てに、深呼吸の仕方すら忘れていた、若干24歳の女。
その頃を取り戻すように、身体中に新鮮な空気が駆け巡り、
中で悪いものを総とっかえしているのがわかる。
まだうっすらオレンジの残る空に、
うっすらとお月さまが浮かんできた。
今日は満月だ。
・・・満月。
彼に出会う前、
一人ぼっちで夜道を歩く私を優しく守っていたのは、お月さまだけだった。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
深夜残業でくたくたになった後、終電のシートで浅い仮眠を取る。
改札を出て辺りを見回すとすでに駅前のお店のシャッターは閉まり、
間もなく駅の明かりが消え、
道を歩く人もいなくなる。
暗い。
何となく、唯一明るいコンビニに逃げ込み、
温かい肉まんと缶コーヒーを手に入れて、自宅までの道のりをやりきる。
それまでの蛍光灯の明るいオフィスにいる時間と全く対照的な、
この、毎晩5分間の暗い道のりは、私をたまらなく絶望的な気分にさせた。
このままずっと、やつれた顔をして、
暗闇の中を一人で歩き続けるのかな。
1年後も、10年後も、その後もずっと一人で…
本当は怖かった。
たとえ肩書きができ、部下ができ、お金がむなしく増えていっても、
その時、それを隣で喜んでくれる人がいなかったら、ちっとも嬉しくない。
このままじゃ、最後には一人になる。
そんなの嫌。
隣でいつも喜んでいて欲しいのは・・・・・
「愛、満月がきれいだよ」
そう、この人。
「わたし、仕事辞める。」
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
いつの間にか、すっかり真っ暗になった土手を軽快に走っている私がいることに気付いた。
もう、暗闇におびえることはない。
大丈夫なんだ。
何となく、お月さまは前よりも遠くに見えて、
私を照らす光を控えめにしているように感じた。
今、私を照らす光は、いつでもすぐ隣にある。
・・・ありがとう、お月さま。
満月に向かって小さく一礼し、余力を振り絞ってラストスパートをかけた。
タッ、タッ、タッ、タタタタタタタタタターッ!
「よし、自己ベストっ!今夜はトンカツだ!」
愛、24歳。婚約者と同棲中。
わたしの仕事は、明るく楽しい家庭を作ること。
―END―
ここまで長々と読んでいただいて本当にありがとうございました。
私は自分のことを言葉だけで他人に説明しきれなくて、
こういった創作的文章にして表現することがあります。
それで少しでも共感してもらえる部分や、
勇気づけられる部分があれば、
素直に嬉しいなぁと思っています。
ということで一人旅日記はこれにて終了!
明日からは通常通り上海生活をお届けします♪
ツイッターでブログに書くほどじゃない上海情報をつぶやいてますので、
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